第54話 夏川ゆらの正体
俺は紫音が風呂から上がってくるまでの間、リビングのソファに座りながら腕組みをして待っていた。
しばらくして、ガチャリと扉が開き、お風呂上がりの紫音がバスタオルで銀色の髪を乾かしながらリビングへと入ってくる。
それと同時に、俺はすっと立ち上がり、紫音を見つめた。
「……何?」
紫音は鋭い視線で俺を睨みつけてくる。
俺は臆することなく、紫音へ質問を繰り出した。
「今日はこんな夜遅くまでどこ行ってたんだ?」
「別に、どこでもいいでしょ。アンタには関係ない」
そう言って、紫音はキッチンへと向かって行く。
「なら当ててやる。スタジオだ。防音室完備の」
俺がはっきりとそう言うと、紫音はピタっと足を止めた。
しかし、それもたった数秒の出来事で、紫音はふっと鼻で笑う。
「なにそれ? 私はただ、友達の家に遊びに行ってただけだし」
「ならその友達を当ててやる」
「さっきからなんなん? 鬱陶しいんですけど」
紫音はしびれを切らしたように、敵対心丸出しの目を向けて来る。
それでも、今日の俺は日和ることはない。
「その友達の名前は、久我原水穂」
「……誰?」
すっとぼける紫音をよそに、俺はさらに言葉を続けた。
「そして今日なぜ夜返ってくるのが遅くなったのか。それはさっきまで配信していたからだ」
「……」
冷蔵庫に手を伸ばしかけた紫音の手がピタリと止まる。
俺はすぅっと息を吸ってから、言い放つ。
「配信者夏川ゆらの正体は、紫音だったんだな」
そう言い切ると、リビングには無音の時間が流れてしまう。
数秒間の沈黙が流れ、紫音がくるりと踵を返し、ドスドスとした足音を立ててリビングを出ていこうとする。
「おい、紫音」
「……きて」
「えっ?」
「私の部屋についてきて」
「おう……分かった」
有無を言わせぬ迫力に押し負けて俺が返事を返すと、紫音は無言のままリビングの扉を開いて、そのまま階段を上がって行ってしまう。
俺は、慌てて後を追うようにして、紫音を追いかけた。
紫音が部屋の扉を開けて、立ち止まってこちらを振り返る。
「入って」
「お、おう……」
妹の部屋に入るなんて、何年ぶりだろうと思いつつ、俺は恐る恐る紫音の部屋にお邪魔する。
紫音の部屋は、ピンクを基調にした女の子らしい装飾が施されていた。
床に敷かれたモコモコ素材の羽毛のカーペットにピンク色のシーツと毛布が置かれているソファ。
しかし、とある一角だけ、女の子の部屋には似つかわしい、重厚感あふれる黒い筐体のようなものがドッシリと置かれていた。
「あんまりジロジロ見んな。恥ずかしいから」
「わ、悪い……」
紫音は恥ずかしそうにしつつ、扉を閉めて、そのままドアに寄り掛かる。
「んで、いつ私が夏川ゆらだって知ったワケ?」
視線を壁に向けながら、紫音が何の気なしに尋ねて来る。
「知ったのは今さっきだ。水穂さんに連絡して、紫音が夏川ゆらっていう確証が持てた」
「そう……」
紫音の顔は、どこか寂しそうに見えた。
「んで、どうなわけ?」
「ど、どうって、何が?」
「アンタが一番好きなASMR配信者が妹だって知って、どう思ったのかってこと」
紫音の問いに、俺は唖然としてしまう。
今の質問をしたということは、本当に夏川ゆらは、妹の紫音ということを認めたことになるのだから……。
「ごめん、やっぱ今の無し」
すると、紫音が制止の声を上げた。
「どうしてだよ?」
「だって、大体わかってるし。幻滅したよね? 私みたいなやつがアンタが夢見てた夏川ゆらだなんて」
「そ、そんなことは……」
「別に無理しなくていいよ。納得してないんだろうなって分かってるから」
「そうじゃない! ただ、まだ気持ちの整理が追い付いてないというか、なんて言ったらいいのか分からないだけなんだ」
「……」
「……」
そこに生まれる気まずい沈黙。
俺は、ずっと夏川ゆらを探し続けていた。
そして、ようやく辿り着いた答えの先にいたのが、数年間ほぼ仲違いしていた妹だったのだ。
何と声を掛けたらいいのか分からないのも、仕方ないこと。
「そっか……そうだよね。普通にキモイよね」
唐突に、紫音は自分自身で何か納得した様子で自嘲気味に笑う。
「そんなことは思ってない」
「でも、困ってるじゃん」
「違うんだ。だって、実の兄が妹のASMR配信聴いて喜んでるんだぜ。そんなの知って、気持ち悪くならない奴なんていないだろ?」
今度は俺が自嘲気味に言うと、紫音が鋭い視線を向けてきた。
「……アンタ、それ本気で言ってる?」
「だって当たり前だろ。ずっと紫音から煙たがられてたのに、紫音が活動してる配信のファンなんだぜ? 気持ち悪い以外の何物でもないだろ」
バシンッ。
さらに自虐気味に答えた途端、俺の頬に鋭い痛みが走った。
なんと紫音が、俺を平手打ちしてきたのである。
「いって……何すんだよ⁉」
「アンタね……」
紫音はプルプルと身体を震わせて、今にも怒りの沸点の限界といったような様子でギっとこちらを睨みつけた。
「な、なんだよ?」
俺は、あえて反抗的は態度を取って見る。
案の定、紫音は鋭い剣幕を向けてきた。
しかし、すぐさま唇を引き結ぶと、目元が段々と細くなっていく。
というか、目尻に涙を貯めている。
「私は……私はっ!」
紫音はスンと鼻を鳴らしたかと思いきや、目元からつぅっと一筋の涙をこぼした。
「アンタがファンだって知って、嬉しかったの!!」
必死に訴えるように、俺が想定していたこととは全く別の言葉を口にした。
「はぁ⁉ おまっ……何言ってるんだよ。冗談はよせって」
「冗談じゃない! あの手紙だって、私からの本心で書いた手紙だもん! お兄ちゃんが私のファンだって分かって、応援してくれてて本当に嬉しかったの!!!!」
堰を切ったように、紫音は嗚咽を漏らして泣き出してしまう。
「なっ……嬉しかったってお前……正気か?」
「だって、私は……私はずっと……お兄ちゃんに耳かきしてあげたかったんだもん!!」
まるで駄々をこねる子供のように、泣き喚きながら気持ちを吐露する紫音。
「……」
俺はただ、唖然と立ち尽くすことしか出来ない。
だって、ずっと何年もほとんど口をきいていなくて、事あるごとにアンタ呼びだった紫音が、今俺のことをお兄ちゃんと呼んだ挙句、ずっと耳かきをしてあげたかったと言い出したのだから。
目の前には、以前のように泣き虫で、弱弱しくお兄ちゃんをせがむ妹の姿がそこにはあって――
俺はついに我慢できずに、紫音の元へと近寄り、ぎゅっと胸元へ抱き寄せて頭を撫でてしまう。
「……ごめん紫音。お兄ちゃんが悪かった。本当は紫音が夏川ゆらで、凄い嬉しかったんだ。だから、もう泣くなって。紫音ももう、立派な女の子だろ?」
「うぅっ……すん……お兄ちゃん……ごめんなさいっぃぃぃ!」
紫音の謝罪は、今まで俺に取ってきた態度についてなのか。
それとも、今まで夏川ゆらであることをひた隠してきたことなのか。
はたまたその両方なのか?
真意は分からない。
けれど今は、そんなことはどうでもよかった。
まず何よりも、目の前で泣いている妹を宥めてあげることが、兄としてしてやるべきことだと思ったから。
どこか懐かしさすら覚える感覚に、胸がじんと熱くなってしまう。
こうして俺は、紫音が泣き止むまでの間、優しく紫音の頭をなでながら、抱き寄せてあげた。
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