第141話 旦那様の特権

”彼女のどんな表情が一番好きですか?”


キッチンで夕食の後片付けをする桜に視線を送って、昴はふと考えた。


夕飯時から点けっぱなしのテレビから聞こえて来た街角アンケートの質問。


”どんな?”


それは彼氏・・つまり、夫である自分に向けられる時の表情なのか?


もしくは、彼女がふとした瞬間に見せる表情なのか?


浮かんだ疑問を自分なりに整理しつつシンクで食器を洗う桜をぼんやり眺める。


機嫌が良いようで鼻歌交じりに白磁の皿を水切りかごに入れて行くその表情がやけに明るい。


そう思ってみれば、今日は昴が帰ってきた時から上機嫌だった。


理由は明白だ。


4日にぶりに昴が夕飯時に帰ってきたから。


久しぶりにガーネットのケーキをお土産にしたのも良かったらしい。


「ケーキ食べたかったの!!」


嬉しそうにはしゃいだ桜は心底幸せそうな様子で、見ているこっちまで頬が緩んだ。


つまり、やっぱり笑っていて欲しいという事何だろうと結論付ける。


泣かせたくないし、困らせたくない。


傷つけたくないし、悩ませたくない。


桜を彩る全てのものが、いつでも彼女にとって優しく鮮やかであるように祈ってる。


つまりはそう言う事だ。


けれど、桜の笑顔ならきっと、俺以外にだって見れる。


幸さんや一鷹、冴梨ちゃん達、浅海の両親も、志堂の両親も。


何と無く浮かんだ疑問。


なら”俺しか”知らない桜の表情ってどんなだ?


出会ってから数年を振り返って、桜の色んな表情を思い出そうとする。


一番胸に焼きついて離れないのは、勿論彼女の柔らかい笑顔。


昴が笑わせてやった時の桜がいつだって一番可愛いと、心底信じて疑わない。


どれだけ幸さんが、桜を愛し慈しんでいるとしても。


自分にだけ向ける桜の笑顔がどれ位大切で、かけがえのないものか。


胸を焦がす切なさも、どうしようもない愛しさも。


桜が笑えばそれだけで、この世界は眩しく満ちる。


心に妬きついて離れない熱情を。


胸に刺さった激情を。


その全てを凌駕して、昴を癒してしまうたった一人の存在を。


絶対に手放せないと、生まれて初めて思った存在。


この手にある事をいつもいつも確かめておきたい自分がいた。


腕の中にある宝物がいつの日も失われる事のないように。


知らぬうちに願っていた”いつまでも”という夢が、叶ったあの日から。


「食器洗い終わり―。ケーキ食べる?ってあービールまた減ってるし」


エプロンを外した桜がテーブルに置いてある空の缶を指差して唇を尖らせる。


「気分良くてな」


素直に答えたら、桜が酔ってるの?と問いかけて来た。


「酔ってる事にしてやろうか?」


「何それ、意味分かんない・・・ケーキは?あたし先に食べても良い?さっき見たんだけど、マカロンも買って来てくれたんだね。ラズベリーのやつ食べたかったの・・・」


以前、冴梨に連れられてガーネットに行った時に、新作のお菓子としてマカロンの詰め合わせを食べさせて貰ったのだ。


カラフルなマカロンは目に鮮やかで、一口サイズの女子に優しい大きさ。甘さ控えめで上品な味に仕上げてあり、冴梨、絢花、桜から大絶賛を受けて、気を良くしたパティシエが新作を作ったのだった。


幸から貰った紅茶を入れて、ちょっとお洒落なティータイムにしようかと検討する桜の手を握った昴が企み顔を向ける。


「ケーキは後にでな」


「昴がお酒抜けるの待てって事?」


「そんな待たせねェよ」


笑った昴が桜の腰に腕を回して引き寄せる。


「なに・・・?わっ」


急に向かい合わせに抱き寄せられる事になった桜は、昴の肩に手をかけた。


「もー何なの?絶対酔ってるでしょ」


困ったように見下ろす桜の腰を更に引く。


距離を詰める事が出来ない桜が片方の膝をソファに付いたと同時に、昴の腕が背中を攫った。


両膝がソファの上に上がる。


勢い余ってペタンと座りこむと、昴の膝の上だった。


横抱きにされる事はあっても、こうして向かい合わせで膝の上に抱きあげられた事は無い。


図らずも昴の両肩に腕を絡める事になった桜は、至近距離にある昴の顔に気付いて慌てて視線を逸らした。


「な・・・何やってんのっ」


「何って・・・お前がケーキ食べたいって言うから」


「ケーキとコレとどういう関係があんのよ?」


思いっきり逸らした視線を引き戻すように片手が腰から離れて顎を添えられる。


「お前が甘いもん欲しいみたいに、俺も甘いもんが欲しくなっただけ」


「疲れてんの?」


「・・・かもな」


「で・・こ・・・この状況の意味は!?」


「意味?」


額がコツンとぶつかって続けて視線も重なる。


「そーよ意味!!酔ってるにしたってこの距離は困るっ恥ずかしすぎるからー!!」


キスをするでも、見つめ合うでも無く。


唇が触れるまで僅か数センチ。


吐息で産毛が震える感覚に眩暈を覚えそうになる。


立ち上がる事も、身じろぎする事も出来ない。


下手に暴れたら背中から落ちそうだし。


真後ろにはテーブルがあるから無傷では済まないだろうし。


かと言って、全くシラフの状況で昴にべったり甘えられるほど、恋愛経験が豊富な訳ではない。


子供なりに恋をしてきたつもりではいたけれど、相手はずっと大人の男だ。


桜の虚勢はとっくの昔に見抜いている。


つまり、既に最初から昴の掌の上という事だ。


ゆるゆると背中を撫でる掌の熱が心地よくて、だんだん力が抜けていく。


昴は桜が体を預ける時を待っているのだ。


だからこそ、そう簡単には素直になれない。


でも、桜がここで意地を張る事すらも先読みされているのだが、それには彼女自身気付いていない。


絡んだままの視線の先で、昴が唇を持ち上げた。


意地悪い笑みを浮かべて距離を詰める。


ふいに重なった唇がチュっと音を立ててすぐに離れた。


もっと長いキスになるかと思っていたので、不意打ちの淡いキスに逆に桜が驚いた顔になる。


そして、咄嗟に唇を追いかけようとして、自分の行動に気付いて留まる。


迷うように揺れた視線。


一瞬だけ合わせて逃げるように離れた桜の眼差しの先を追いかけるように昴が頬にキスをする。


「素直な反応」


喉の奥で笑った昴が桜のリアクションを愉しむように、耳たぶに、こめかみにキスを落として行く。


「桜・・・こっち」


昴の唇から逃げようとして、桜の肩口に顔を埋める。


結局は昴に抱きつく事になってしまった。


赤くなった頬に昴の指が触れて、いとおしむように首筋までを辿る。


その優しすぎる手つきが、ますます桜の羞恥心を煽る。


一向に顔を上げようとしない桜にしびれを切らした昴が肩口にある桜の髪にキスをした。


「いい加減顔上げろって。悪かったよ、やりすぎた」


耳元で囁くと、おずおずと桜が顔を上げた。


耳まで真っ赤になった桜が泣きそうな顔を向ける。


「あー・・・なるほどな。そうか」


その表情を見て昴が納得したように頷いた。


「・・・何?」


「お前のそういう顔を見たかったんだよ」


「え?」


「俺だけしか見た事無い顔な」


満足げに笑うと、昴が桜の頬を包み込んで唇を寄せた。

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