第138話 プライベートスペース
「一鷹くんが海外出張の間、みゆ姉のとこ泊まりに行ってくるから」
「3泊4日?」
「そう、その間昴も展示会の準備で午前様でしょう?」
秋展準備が大詰めを迎えたので、この1週間は正念場の予定だった。
変更が多いため、綿密な内容までは伝えていないが、一週間の大まかなスケジュールは桜にも教えてある。
一鷹の足場固めが終わってからは別行動も多くなったので、その分出張も増えた。
桜と一緒に暮らし始めて暫くは、朝に家を出て、夜には必ず帰る生活を続けていたが、結婚してからは長期出張に出る事も多くなった。
幸さんから提示された条件の一つ”絶対にさぁちゃんを不安にさせないこと”
桜があの家で”一人”を嫌がるだろう事は誰の目にも明らかで、そして、それを必死に隠すだろう事も容易に想像出来た。
タイミングとしては良かったのだ。
幸さんと一鷹の結婚、それに伴う本家の動き、一鷹の専務就任と同時に後継者教育が始まり、社長と一緒に得意先と会社を行き来する日々が続いた。
日常業務から始まり、経営利益の数字や営業戦略、多岐にわたる事業計画まで、時間の許す限り一鷹を仕事漬けにして、その間に幸さんと本家の摩擦を可能な限り排除した。
桜を浅海に、志堂一族に迎え入れる為に。
それが無事に叶った今、後回しにしていた案件の回収で新たな忙しさに見舞われているのだが、一鷹や俺の結婚前と比べれば大したことではない。
社内システムが稼働する時間は限られている。
平日は朝8時から夜8時まで。
それ以外の時間は直接システム部への依頼が必要になる。
おかげで、教育期間は少なくとも”夜”には桜の元に帰る事が出来た。
どうしても帰れない時は事前に桜を幸さんの元に預ける。
桜が家じゅうの灯りを灯して”家族”の帰りを待ちわびていた時期を脱してからも暫くは、夜彼女を一人にしておく事はなかった。
桜が、じゃない。
たぶん、俺が誰より不安だったのだ。
桜が呆れ顔で”平気だってば”と口にするたび。
幸さんのマンションで暮らし始めた頃の彼女の様子が目に浮かんだ。
”行ってらっしゃい”と幸さんを見送った後で、一人残る桜の寂しそうな表情。
思い出すと、もう駄目だった。
過保護と言われても、前衛手段を講じて守ろうとして来たのは、俺の身勝手なエゴで。
桜と出会ってから、どうも、自分の一番見たくない部分ばかり気づくようになっている。
どうしようもない独占欲とか、庇護欲とか。
そして、それを必死に押し殺して冷静なフリをする。
だから、桜が”泊まりに行っても良い?”という疑問形じゃなく”言って来るから”と決定打を告げた時も俺は鷹揚に頷いた。
桜の顔からは”昴もあたしに気兼ねせず仕事出来るでしょう?”と自分の提案を名案と信じて疑わない自信が見て取れた。
出会いから”社会人”と“女子高生”だったせいか、桜は成人した今も自分を”お荷物”だと認識している節がある。
志堂を取り巻く分家一族にとって桜は一鷹と幸さんを手中に収める唯一の切り札であり、俺を自由に動けなくするただひとつの最終兵器であるのに、本人にその認識は全くない。
幸さんが頑なに望んだ”志堂の外であの子を育てる”という答えが、見事に反映された結果といえるだろう。
一鷹の親友でもある篠宮亮誠が、桜の高校時代からの友人である高遠冴梨と結婚したのはつい先日の話しだ。
大学入学と同時に”婚約者”である事を公にし、業界の顔合わせにも同伴していた彼女の存在は、異業種であるが、宝飾品業界でも話題を呼んだ。
篠宮の展開するガーネットは”若社長が担う時代の洋菓子店”として一躍有名になったし、一般人が企業の社長夫人になるというシンデレラストーリーは、世の女性の憧れだろう。
実際、亮誠達の結婚式で披露されたストロベリーをふんだんに使ったケーキは、6月の地域情報誌に特集を組んで紹介され、それ以降ウェディング業界との取引が本格化している。
おかげで、バレンタインデー・ホワイトデーとイベントメインの取引だったウチまでエンゲージ、マリッジを取り扱ったおかげで話題に乗っかって、大忙しだ。
勿論、広報部は嬉しい悲鳴だろうが。
そんな現状で迎える秋展は全社を挙げて売上増大を狙っており、準備も今まで以上に活気に溢れていた。
おかげでここ数日朝方に帰る日が続いてたのだ。
たとえ、何時に帰っても誰かが居る家というのはそれだけで安らげるものだ。
本人が自覚している、していないに関わらず。
喉元までせり上がった引きとめるセリフを押し留めて、生まれたばかりの一鷹と幸さんの一人息子の事を話題にして逃げた。
「幸さんも、暁鷹と二人だと不安だろうしな、行ってやれよ」
「うん。冷蔵庫空っぽにしていくから、よろしくねー」
桜はテキパキと答えて、微塵の寂しさも見せなかった。
★★★★★★★★★★★
「王子様と遊び疲れちゃったみたい」
桜を迎えにきてやって欲しいと連絡が来たのは夕方の事だ。
一鷹から”眠り姫がお待ちですよ”と揶揄するように言われたのだ。
言葉通り、眺めの良いリビングのソファで眠り込む桜を見つけた。
「暁鷹が抱っこばっかりせがむから、さぁちゃんリビング何往復もしてくれて、おかげで、この子も今晩はぐっすり眠ってくれそうよ。パパは寝顔しか見れないから可哀想だけど」
ウトウトし始めた暁鷹を抱えて、幸さんが寝室に向かう。
「ちょっと寝かしつけてくるわね。今日はゆっくり出来るんでしょう?」
「そのつもりですよ。一鷹から話しも聞きたいし」
逐一メールでやり取りをしていたが、実際に資料を見ながら意見を聞くのではニュアンスが微妙に違うものだ。
俺の言葉に幸さんがリビングを出る足を止めて振り向いた。
「今日位仕事の話やめたら?」
「仰せのままに」
「ほんっとにウチの男の人たちは真面目ね」
溜息交じりに笑って幸さんが廊下に消える。
残った俺は、桜の眠るソファの端に腰かけた。
頬を覆う彼女の滑らかな栗色の髪を指先で掬う。サラサラ零れる髪から頬へと手を伸ばす。
伏せられた瞼は開く気配を見せない。
玄関先で見送ってくれた眠たげな顔を思い出す。
「ちゃんとご飯食べて、あと飲み過ぎないで」
念を押すように言われた台詞を塞ぐようにキスをした、唇の感触が懐かしい。
惹かれるように伸ばした指が無防備な唇に触れる手前で止めた。
歯止めが効かなくなりそうで怖い。
ちらりと廊下に視線を送ってみたが、幸さんが寝室から戻って来る気配は無かった。
嘆息してソファに凭れる。
引き戻した指先を握り込んだら、桜が小さく身じろぎした。
「んー?」
目を擦って体を起こす、と俺に気づいた。
「昴・・・なんで居るの!?」
「迎えに呼ばれた」
「来たなら起してよ!」
「起こせとは言われて無いしな」
「屁理屈言ってっ」
遠慮なく顎を捕えて唇を塞ぐ。仰天した桜の唇を僅かに離して告げる。
「起きたなら遠慮しなくていいな」
「したこと無い癖に!」
不貞腐れた桜の頬にキスをして呟く。
確かに遠慮していない、けど。
確かな根拠ならある。
「俺なら許されるだろ?」
「どっから来る自信?」
「この距離から」
こちらを伺う彼女の肩を強引に抱き締めた。
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