第137話 体温計

火照った頬を指の背で優しく撫でてやり、宥める様に瞼に触れる。


さっきから不安そうな視線を向けて、こちらの動向を伺う桜に向かって、安心させるように昴は微笑んだ。


ベッドに仰向けに寝転んだままの桜から、昴の様子ははっきりと見て取れない。


視線の片隅で昴がちらつかせたものを確かめた桜が、緊張で体を固くした。


僅かに開いた唇で心細げに昴の名前を呼ぶ。


普段の3倍はしおらしい桜。


彼女の様子は、昴の庇護欲と征服欲を大いに刺激した。


これだから、油断できない。


一瞬の隙をついて、飲み込まれそうになる。


昴は自分の自制心に二重のカギをかけた。


状況が状況なだけに、流されるわけにはいかない。


何度も自分に言い聞かせる。


昴は腰掛けたベッドの端から身を乗り出して、桜の顔を覗き込んだ。


慌てたように桜が視線を部屋の隅へと逸らす。


顔を背けた彼女の赤い耳たぶを撫でて、いつもよりもそっと引き戻した。


震える睫の隙間から、こちらを見上げる桜の肩にそっと触れると、昴が優しく呼びかける。


「さーくら」


「・・・いや」


昴の甘い呼びかけも空しく、桜の口から飛び出したのは頑なな拒否の言葉。


小さな拒絶の声と共に、しっかりと上掛けを顔まで引き上げる。


昴は溜息を吐いて、その上掛けを引き下げた。


「往生際悪ぃ」


胸元まで引き下げた布団を、二度と戻せない様にしっかりと抑え込んで、昴が桜の顔の横に手を突いた。


「いい加減諦めろ」


「っ!い、や」


今度はさっきよりも大きな声で言われて、昴が渋面を作る。


いつもなら、有無を言わさず実力行使に出るのだが、今日はそういうわけにはいかない。


なんせ、相手は病人だ。


午後から出勤すると連絡しておいて正解だったな、と数十分前の自分をの行動を称賛しつつ昴は桜に視線を戻した。


上気した頬と、潤んだ瞳。


それだけ聞けば十分色っぽい状況だが、残念ながら全く楽しい展開になりそうにない。


昴の今の目的は、桜の熱を測る事。


何とか説得しようと、昴が桜の目の前に体温計を突き出した。


「こら、我儘言うなって、熱あるのはもう分かり切ってるんだから。何を今さら嫌がる事がある?」


桜がなぜ、こうまでして熱を測る事を拒否するのか、その理由が昴にはさっぱり分からない。


「熱があるって分かってるんだから・・・わざわざ・・・何度か調べる必要ないでしょ・・・」


熱のせいで掠れた声で桜が言い返す。


「高いなら病院行った方がいいだろ」


「病院嫌い」


「子供か、お前は」


「子供で良いって言ったくせに」


「こういう時に、それ引っ張りだすな」


渋面を作って昴が言い返す。


いつかの自分の台詞をここぞとばかりに多様化する桜。


病人相手に怒る事も出来ずに、昴は溜息で苛立ちを抑える。


「熱、高かったら・・・余計しんどくなるもん」


続けざま聞こえてきた小さな声。


言葉尻が舌足らずなのも、熱のせいだろうか?


外ではしっかり者と評される桜が、子供のように甘えてくる度、昴は普段見せる大人びた桜とのギャップに驚く。


誰の手も借りまいと必死に自分の足で立つ彼女が、両手を伸ばして甘えて来る時の可愛さといったら、他の何にも変えようがない。


昴の持つすべての荷物を投げ打ってでも、桜を抱きしめてやりたいと思っている事。


彼女の願いや希望は残らず全て、自分の手で叶えてやりたいと思っている事。


そして、桜の持つ強さや弱さ、純粋さや優しさ、彼女を作る要素の何もかもを、自分だけのものにしてしまいたいと思っている事。


昴が内に秘めた情熱の全てを、桜はまだ知らない。


誰かを、塗り替える程を愛したいと思った事が、初めてだという事も。


だから、どの程度強引にしてよいのか分からずに、いつも戸惑う。


それは、結婚する前も今も変わらない。


男兄弟しか知らない昴にとって、年頃の女の子との生活は全く未知のモノだった。


だから、今日もあり得ない位困惑している。


桜に関することは、現在全て昴に一任されている。


漸く手にできた桜の存在。


彼女を誰より愛し守ると、幸に約束したのはつい先日の事だ。


新婚生活と、冴梨の店のアルバイト、暁鷹の子守りで大忙しの桜はそれでも毎日楽しそうだったので見守ることに徹していたが、もう少し口を挟むべきだっただろうか。


そんな不安が昴の頭をもたげる。


こういう時こそ、力になるのが自分の役目の筈なのに。


「もう十分しんどいだろ?」


宥める様に問いかけると、桜が眉根を寄せて黙り込んだ。


いつもより赤い唇が、誘うようにすぼめられる。


伸ばした指先で熱い唇に触れて、昴が桜の真意をくみ取った。


「起きれない程しんどいんだろ?」


「そんな事無い」


「桜、ここで意地張るなよ」


昴の言葉に桜が真面目な顔で言い返してきた。


「寝てたら治るから、会社行って」


「そんなわけ行くか」


「あっくんとはしゃいで、疲れただけだよ」


「この状態でお前ほったらかして仕事行ったって、心配で何も手につかねぇよ。熱高いなら、病院の薬飲んだほうがいいし」


「いいの・・・」


「良くねぇよ」


「ほんとに、ダイジョブだから。下からいつもの鎮痛剤持ってきて?」


頑なに体温計を拒否する桜の額を手で覆う。


やっぱり、熱い。


おおよそだが37度5分は下らない。


昴が穏やかだが、強い声音で名前を呼ぶ。


「桜」


その声に、桜の瞳がみるみるうちに潤んで

いった。


堪え切れずに目尻から涙が零れる。


「っえ、おい・・・」


慌てて昴がそれを指で拭った。


「っだって・・・いやなんだもん・・・」


消え入りそうな声で桜が呟き目を閉じる。


まるで迷子になった子供の様な不安げな声。


「・・・うん?何が」


昴が枕に散った桜の長い髪を優しく撫でて促した。


「薬、切れて目が覚めた時に・・・部屋に一人なのが嫌なの・・・」


桜の言葉に昴が息を飲む。


両親の愛情を目一杯受け取ってすくすく成長している暁鷹を見守る一鷹と幸を見る度に、この上なく幸せそうで、けれど、時折寂しそうにもする桜に、気づかない振りをして来た。


浅海の両親がどれだけ親身になっても、桜の両親の代わりにはなれないのだ。


暁鷹たちの様子を見る度に、幼い頃の記憶を思い出していたんだろう。


まして、この家は彼女が生まれ育った思い出が溢れる場所なのだ。


真っ直ぐに桜を見つめて昴が真摯な声で告げる。


「ごめん、俺が悪かった」


「違うの・・・昴は悪くな」


「こんなに一緒に居るのにお前の事分かってなかった」


遮るように告げて、昴が桜の体を抱きしめる。


「今日は、ずっと一緒にいてやる」


「・・でも、仕事」


「いつも寂しい思いさせてるんだから、今日位、お前を優先させてくれよ」


安心させるように微笑んで、昴が優しく桜の体を抱き起した。


「やっぱり熱いな」


背中から桜を抱きしめて、パジャマのボタンを外す。


「っなに?」


「一緒にいてやるから熱測れ」


広げた襟元から体温計を差し込んで昴が桜の赤い頬にキスをする。


「もう不安になる事ないだろ。熱が高いなら病院行って診て貰う」


有無を言わさぬ口調で昴が告げた。


凭れかかってきた桜の頭をあやすように撫でる。


「お前の事は俺がいつでも見てるから心配するな」


「・・・・うん・・ありがと」

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