第136話 構えよ
出張帰りの木曜日、2日ぶりの我が家のドアを開けて、昴は玄関のタイル床を眺めたまま首を傾げた。
あるはずのものがそこには無い。
念のため左手首に巻かれている腕時計で時間を確認する。
午後21時半。
確かに、この時間には帰宅すると妻にはメールでも、昨日の電話でも伝えた筈だ。
が、玄関に桜の靴が見当たらない。
桜が家に居る時も、防犯の為に常に施錠をするように伝えているので、玄関のかぎが掛かっていた事は納得する。
けれど、リビングから駆け出して来るであろう最愛の人物は何十秒待っても現れない。
右手に抱えたままの荷物と手土産の入った紙袋を見下ろして溜息を吐く。
「さーくらー」
呼んでみても当然返事は無い。
昴が出張から戻る日は必ず家で待っていたのに。
今日に限ってどうしていないのか。
しかも、何の連絡もなしに。
閑静な住宅街とはいえもう21時を回っているのだ。
自分が居る時は、絶対に一人で出歩かせない時間帯だ。
よっぽどの用事か?
桜がこの時間から出掛ける理由をアレコレと思い浮かべる。
一番の理由になりそうな一鷹の妻である幸の顔が浮かんで、すぐに消えた。
ついさっきまで一鷹と一緒だったのだ。
桜がもし志堂家にいるなら、拾いに来いと連絡が入った筈だ。
次に、桜の親友を思い浮かべるが、すぐにこちらも消えた。
冴梨は子供がいるのでこの時間に桜を呼び出すとは思えない。
絢花は数日前から久しぶりの恋人の休暇を利用して沖縄旅行に行っているはずだ。
この二人が原因とは考えにくい。
となると、次に浮かぶのは浅海の両親だが、それなら連絡も一本も入る筈だ。
「どーこー言った?」
呟いて、荷物を片手に廊下に上がる。
空いている手で携帯を探り当てて着信履歴から桜の番号を引っ張り出して通話ボタンを押す。
と同時に玄関のドアが開いた。
「たっだいまー」
待ちわびていた声に昴が振り返る。
と、目の前にコンビニ袋を提げた桜の姿を見つけた。
「車停まってたから、階段駆け上がっちゃったー、お疲れ様ー」
にこにこと笑顔を向けて来る桜の顔をまじまじと見つめて、それから右腕を迷うことなく掴む。
昴は無言のままで桜の腕を引き寄せた。
桜の体を腕に収めると同時に、桜の背中でドアがゆっくりと閉まった。
「心配した?ごめんね」
「何処行ってたんだ?」
「そこのコンビニ、ほら、昨日昴と電話してた時に話してた、新作アイス、一緒に食べようと思って、買いに行って来たの」
バタンと閉まった玄関ドアに右手を伸ばす。
桜の肩越しに、施錠とロックをかけると昴は桜を促して廊下に上がった。
そこで、桜が昴の足元に落ちているカバンと紙袋に気付いた。
「荷物置きっぱなし・・・さっき帰ったばっかりだったの?」
不意打ちの問いかけに、昴は黙ったままで視線を逸らした。
本当は10分以上前に帰っていたが、桜が居ないので、呆然としていたなんて言えるわけがない。
抱え込んだ桜の頭を引き寄せて、前髪ごしにキスをする。
「夜一人で出歩くなって言ったろ」
「歩いて5分だよ」
「5分でもだ。アイスなんて俺が帰ってから一緒に買いに行きゃいいだろ。それか、連絡して来いよ」
溜息交じりで昴が桜の髪をかき混ぜる。
玄関に駆け出して来る桜を待っていたなんて・・・これではまるで、立場が逆だ。
恋しがっているだろうと、急いで帰った自分の気持ちのやり場が無くて困る。
どうしてくれようかと、最愛の妻を見下ろせば、桜が視線の先で無邪気に笑って見せた。
「違うよ、アイス買って待ってたかったの」
掲げられたコンビニ袋。
その気持ちはこの上なく嬉しいし、愛しいし・・悔しい。
桜の気持ち全ての一番でありたいと願ってしまうのは、ただの我儘なのか、欲張りなのか。
「・・・アイス、クレープのやつ?」
視線を下げて伺えば、桜が満面の笑みで頷いた。
「そう!美味しそうって言ってたでしょ。苺とブルーベリーの2つ買っといた」
「どっちもお前の好きな味な」
「いーでしょー、別に。だってどーせ昴、半分も食べないし」
「食うよ」
「え?」
「食う」
真顔で応えた昴に、桜が瞬きひとつして笑う。
「うん、一緒に食べよう」
「けど、その前に・・・」
「うん?」
「桜、俺にお帰りって言った?」
問いかけたら、桜の悪戯っぽい瞳がきらりと煌めく。
うーん、とワザと悩む様な素振りを見せてから答えた。
「昴、あたしに、お帰りって言った?」
「・・・」
玄関を入ってきた所を強引に引き寄せて今に至る事をようやく思い出す。
「お前が言ったら、言う」
「なーんでー。先に帰って来てたの昴でしょ?後から帰って来たあたしに、お帰りっていうのは普通じゃない?」
さも当然と応える桜を丸めこむように、唇にキスをして、昴が笑う。
「世の中の普通とかどーでもイイよ。俺が、聞きたいの」
その一言を聞く為だけに、急いで帰っていたというのに。
桜の肩に頭をもたせかけて、昴が囁く。
抱き寄せられたままで桜が昴の髪をそっと撫でた。
耳元で小さく”おかえり”と呟く。
「・・・ただいま」
「あたしにも言って?」
甘えるように強請られて昴が桜の鼻先と頬にキスをしてから、お帰り、と告げる。
「んで、俺の事構えよ」
「っは?」
「お前がいっつも言うだろー。仕事無い時位、一緒に居たいって」
「いっつもは言ってませんけど!?」
「そーか?」
笑って取り合わずに、昴が桜を更に強くかき抱く。
「アイス溶けるよ・・・」
「んなすぐ溶けねェよ」
「だって結構時間経ってる」
「徒歩5分だろ?」
桜のセリフを逆手に取って昴が言った。
「そーだけど、アイス手にしてちょっと悩んだから・・・」
「何を?」
「これ、全部で5種類あったのね。その中でどれを買おうか迷ったの」
アイスを手にしては首を傾げて悩む桜の姿が目に浮かぶ。
昴は小さく笑って、桜の耳たぶを甘噛みした。
「っひゃっ・・・」
桜の反応に気を良くした昴が更に項に唇を寄せる。
「残りの3つ買いに行こうか?」
「ええー?」
「どーせ決められなくてさんざん迷ってたんだろ?」
「・・・」
黙り込んだ桜の顔を覗きこんで、もう一度昴が唇にキスをする。
何で分かったの?と表情で訴えた桜と視線を合わせて昴が答える。
「何でも分かるよ」
「アイスはいいの、二個だけで。昴、明日は休み?」
「午後から出るよ」
「じゃあ、家にいる間に一緒に買い物行って?その時にアイス選ぶ」
「いいよ」
頷いた桜の唇に触れようとした矢先、彼女が昴の足元にある紙袋の中身に気付いた。
「ねえ、それ、中身崩れないもの?」
「ん?あーなんだっけ・・オレンジのタルト?」
「ええ!?放り出さないでよ!」
斜めに傾いた紙袋を救出した桜の腕を掴んで、今度こそ唇を重ねる。
「言ったろ、俺の事先に構えって」
囁き声に桜が笑った。
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