前のエピソード――一章　傲慢王女は帰りたくない①

　すっかり機嫌を悪くしたわたしはアンを𠮟（しか）りつけた。

「もう、無（む）駄（だ）口（ぐち）はいいから仕事して！」

　彼女はまだ何か言いたげだったけれど、すぐにメイド達に指示を出し始める。

　ようやく着（き）替（が）えが始まり、あまりの気の利（き）かなさにやれやれと……って待って、待ってまって。

（これじゃあ『前回』と何も変わってなくない？　とりあえずさっきの婚約破棄は回避したけど、別に破（は）棄（き）そのものを取りやめるとは言われなかったし……）

　今度はわたしが顔色を変える番だった。

　まずい、あんなに反省したはずなのにすっかりいつもの調子でやってしまった……。

　これじゃあ駄目なんだってば。

　わたしは、心を入れ替（か）えて誰（だれ）から見てもイイ子になるんだから！

「ちょ、ちょっと言い過ぎたわ、アン。わたし、当主様の婚約者として相応（ふさわ）しくない行動をしてしまったのね。教えてもらって良かったわ」

　急に謝罪したりお礼を言ったりしたら怪（あや）しまれるかしら？

　でもこっちは婚約破棄目前、待ったなし。ほどよいタイミングを見計らう余（よ）裕（ゆう）なんて欠片（かけら）もなかった。

　アンは、わたしの言葉を聞くとものすごくギョッとした顔をした。

「え!?　今、なんておっしゃったんですか」

「それにシエナ、ナナ、エミー、ヒルデ、ラウラ、サンドラ、ノーラ。いつも身の回りのお世話をしてくれてありがとう。そこの貴方（あなた）は初めて見るわね、新入りかしら？」

「そんな、なんで……え……？」

「いつも本当に感謝しているのよ。貴方達がいてくれなければ服の着替え方すら分からないもの」

　出来るだけ心をこめて感謝を口にすると、アンは目を皿のようにしていた。

「あの……何故（なぜ）、どうして私達の名前をご存じなのですか？」

　アンの隣にいた黒髪の侍女、シエナも戸惑ったようにおずおずと聞いてくる。

　ん？

　なんかそこ、引っかかるところだったろうか。そう言われてみれば今まで名前で呼んだことはなかったけど。

　思わずきょとんとしてしまう。それってそんなに大事？

「どうしてって。初日に全員挨（あい）拶（さつ）してくれたじゃない」

　別にこっそり調べたわけでもなんでもない。

　ただその時によく注意して聞いて、しっかり記（き）憶（おく）しただけの事だ。

「まさか、たったのそれだけで!?　あたし達がご挨拶したのはその時一度きりのはずです。しかもあの時は一度に全員、二十人以上いたのに……」

　なんだそんな事。

「さっきも言ったけどわたしは貴方達がいてくれないと何一つ自分では出来ないのよ。それだけお世話になるのだから一度で名前を覚えるのは当然でしょ？」

　アンはわたしの言葉を聞くとなにやらもじもじし始めた。

「で、でも……まさかそんな。あたし達の名前などどうでもいい、覚える必要なんてないと思っていらっしゃるのかと……」

　アンは何故か落ち着かない様子をみせ、シエナや他（ほか）のメイド達もそこはかとなくそわそわとして雰（ふん）囲（い）気（き）が浮（うわ）ついている。

　え？　何？

　もしかして本当に貴方達の名前も知らずにお世話を受けていると思ったの？　当然の事じゃないかと言いかけ……考えてみれば彼女達にとってわたしは悪の『傲慢王女』なのだと思い直した。

　ふむ、と考え込む。

（最初の挨拶で名前を覚えていないと思われていて……そのまま何かの折に尋（たず）ねる事もなく呼びもしなければ、覚える気がないように見えるわよね、きっと）

　繰（く）り返しになるがバルテリンクでは使用人と主人の間（あいだ）柄（がら）がとても近い。失敗があれば次々クビになり新しく入れ替える王宮と違（ちが）い、ほとんどメンバーの入れ替えはなく何年も同じ使用人が働く。

　恐（おそ）らく領主であるリュークも大（たい）抵（てい）の使用人の名前を覚えているのではないだろうか。

（よく考えれば、確かに他の領地の貴族達はあまり使用人の名前まで気を遣（つか）っていなかった。主人に名前を覚えられるのは彼等にとっての名（めい）誉（よ）と誇（ほこ）りなのかもしれない）

　わたしが全員の名前を理解していると知った途（と）端（たん）、今までツンケンしているばかりだったアンが急にしおらしくなった。

　いや、なんだかずいぶん好意的に受け止めてくれているみたいだけど、一人一人を把（は）握（あく）されているってことを不安には思わないの？　例えば逆にねちっこく嫌（いや）がらせをされるかもとか。

（……思わないのでしょうね、そんな意地悪い裏読みなんてする人達じゃない）

　この土地の人々は良くも悪くも単純で善良だ。

　裏ぐらいは考えることはあっても、裏の裏までは確かめない。根っからの悪人なんてそうはいないと純（じゆん）粋（すい）に信じているタイプの人達なのだ。

　伏（ふく）魔（ま）殿（でん）の王宮で生まれ育ったわたしには眩（まぶ）しすぎる。

（そうよ。だったらわたしもあまり考えすぎず、素（す）直（なお）に感謝を言ってみたらどうかしら）

　王都ではしきたりだなんだと、気安く使用人に話しかける事は固く禁じられていた。簡単に隙（すき）を見せるような真似（まね）をしてはいけないと。

　でも郷（ごう）に入っては郷に従え。

　そう切り替えたわたしはアンに向かってにっこりと微笑（ほほえ）んだ。

「そんな当然な事をわざわざ言う必要はないと思っていたけど、伝わっていなかったようね。あなた達のことはいつも見ているのよ」

「う、嘘（うそ）です。そんな……」

「本当よ。特にアン、季節の花を毎日上手に生けてくれているのはあなたでしょう？　居間には華（はな）やかで旬（しゆん）のものを。寝（しん）室（しつ）には匂（にお）いの弱い落ち着いた色合いのものを。とてもセンスがいいのね、毎日楽しみにしているわ。それにシエナは手先がとても器用よね。こんなにきれいに髪を整えられる子なんて王都にもいなかったもの」