47 短歌


 春五歳どこも迷路と変じた日あの手を牽いてくれたのはだれ


<読み>

はるごさい どこもめいろと へんじたひ あのてをひいて くれたのはだれ




ちいさい頃って、よく迷子になりませんでしたか?

親の手からはなれ勝手にふらふらさまよい歩いて、気がつけば……ここはどこ?


だれもがそんな、ワンダーランドに迷い込んだ記憶をもっているんじゃないかと思います。おおげさに言えばそれは、世界とのファーストコンタクトだったのかもしれません。自分とは異質で、思う通りにならず、理解を超え、いかなる分析も拒絶する世界との。


あるいは別な想像をひろげれば、ほんとうは道に迷ったのではなく、心だけが迷子になっていたのかも。

つい今まで身に馴染んだ町並みと思えていたはずの光景に、なぜか自分の居場所がなくなったように感じる。自分とは相容あいいれない世界が目のまえにひろがっている。ほどき得ない迷路が、忽然とあらわれる。


不安が湧きあがりますが、不安の理由は知り得ない。

だからこそ、だれかが手をとって、牽いてくれたときの安心感。その「だれか」へのなつかしい想い。夢だったかもしれないし、いろんな記憶がこんがらがっているのかもしれない。それでも、五歳の春の記憶は、いまのわたしを形づくる材料になっているのだろうと思います。



……さて。

下の句冒頭の「あの」は、どこに係ると思われますか?

「手」に係って「あの手」となるのか、それとも「手を牽いてくれたのは」に係るのか。

答えは……どちらもアリだと思います。


前者だとすれば、「あの手」とは、わたし自身の手です。この言い方だとなんか他人の手のようにも思え、自身の手だと明示するなら「この手」の方が相応しいのかもしれませんが、それでは「遠い昔感」が出ない。

後者だとすればなおさら、「この」「その」じゃないですよね。


自身の体さえたしかに自分のものだったという感覚がもてない。あるいは、その記憶がふわふわとして、かたい手応えがしない。自信をもって言えない。それほど、遠い昔の、幻のような思い出。……という感じが「あの」から出ていたらいいなと思います。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る