今年は久しぶりに花火大会が催されるところも増えましたね。久しぶりというのが祟ったのか、過去とは全く違う原因で事故が起こる報道も聞かれます。花火そのものというよりは、取り扱う「人」によりけりなんだろうなと、ちょっぴり厳しい目線で眺めております。
愛宕地方では、近くのアトラクション施設で毎日花火が上がっているので日常茶飯事的な印象でしたが、鎮魂という意味も込めて眺めてみたら、また違った景色が見えるかなぁと思いました☆
作者からの返信
応援ありがとうございます!
花火大会が戻って来たのはうれしいですよね。事故はないようにしてほしいところですが、取り扱う人次第・・・だから技術の伝承が大事なんでしょうね。
毎日花火が上がるというのはうらやましいです☆ でも毎日だと感動も薄れて、煩く感じたりするのでしょうか。。鎮魂と思えば、許せるかもしれませんね。
久里 琳様
美しい歌ですね。花火と貝殻の美しさもさることながら、花火の一瞬の輝きと、貝殻が波うち際に辿りつくまでの長い旅路。長短も感じさせてくれました。
その上、誰と来ているのかも想像がふくらみます。家族とかもしれないし、友達と、あるいは恋人と来ているのかもしれませんね。
悲しい出来事……もしかしたらと思い出したことがありました。
ご冥福をお祈りするしかできませんが……
作者からの返信
応援ありがとうございます!
悲しい出来事は…こうやって時々だれかが思い出すことが供養になるのかもしれませんね。
花火と貝殻に、時間の長短の対比を読み取られるとは、豊かな想像力に脱帽です。さらに、誰がどんなシチュエーションで…と想像を広げてくださって、、こんなに深く読んでいただいて、幸せです。
☆もいただいて、ありがとうございました!
久里 琳さま
こんにちは。
俳句そのものを味わうというのも、もちろん味わい方のひとつなのだと思いますが、私は詞書があるのが好きで、この句が出来上がるまでの経緯や思いが先に説明されるのは嬉しいです。
「よ」ではじまり「よ」で終わるのですね。輪廻を想像させます。夜、遠い浜辺で打ち上げられている花火が見える。私はその喧騒すら届かない暗い浜辺で波の音を聞きながらほの白い貝殻を拾っている、そんなイメージがわきました。
作者からの返信
応援ありがとうございます!
先に詞書があるのが伝統的なスタイルなのかもしれませんね。どんな物語があって詩が生まれたのかを知ると、詩の世界が広がるような気がします。
「よ」から「よ」、、図らずも言葉の輪がとじるような形になったのを拾ってくださって、うれしいです。そこから輪廻を思い浮かべられるのは鋭敏な感性ですね!