第793話 「制度」の問題やから、しょうがないんやけど…。

私が後期研修医2年目の時、同期が結婚する、ということで、彼女の担当していた外来患者さんの一部を引き継いだ。その中に、高血圧で定期通院しておられた60代の男性がおられた。


お仕事は日給月給(働いた日数分だけ月給がもらえる、という意味)で肉体労働をされておられた。彼女が診ていた時から高血圧はコントロール不良で、カルシウム拮抗薬、ARB、サイアザイド系利尿薬、α-blockerを処方されていたが、自宅血圧は160代、ということだった。自宅血圧をこのように測定してくださるので、病識もしっかりしており、性格もきっちりされておられた。ただ、どうしても収入の点で厳しく、私が引き継いだ後、


「先生、大変申し訳ありませんが、受診間隔を今の6週間から8週間に伸ばしてくれませんか?」

「先生、薬を減らしてもらえませんでしょうか。お金がなくて困っているんです」


とおっしゃられていた。4種類の降圧薬で降圧不十分であり、内分泌系の評価をしたり、薬を増量したりしたかったのだが、「お金がない」といわれると、なかなかそこに踏み出せない。日給月給なので、受診のために仕事を休むとその分給料も減るわけである。そこで金銭的な負担をかけているうえに、さらに「金がない」と困っている人の「金銭的負担」をかけるのは、「医学的に必要」であるとはわかっていても、躊躇してしまっていた。「お金がない」ことのつらさ、みじめさは多少は知っているつもりだ。


「そうですか…。まだお若いし、血圧をしっかり下げたほうが、『健康な状態』を維持できると思うのです。確かに『お金がない』といわれると、必要とは思いますが、『検査』や『薬の増量』を強要するわけにも行きませんねぇ…。困りましたねぇ…」


と悩んでいた。強引に事を進めて、通院が止まってしまうこと、当院への信頼感を失ってしまうことが、より避けるべき状態だろう、と考え、可能な限り、強く生活習慣の指導をしながら、患者さんの希望には沿うようにした。


薬を減らすと、やはり血圧コントロールは悪くなってしまう。高血圧の患者さんについては、全員に「自宅での血圧測定」を指示しており、定期受診時には自宅での血圧を確認している。自宅での血圧を見て、降圧剤の調整を行なっている。これは今でも同様に行っていて、「高血圧患者さん」の外来での管理方法のスタンダードだと思っている。


この患者さんについては、状態は悪化しているので、薬を増やしたいし、受診回数も増やして、さらにこまめな血圧コントロール、血液検査での臓器障害の評価などを行ないたいのだが、


「お金がないので、勘弁してください」


といわれると如何ともしがたい。


4種類飲んでいた薬が、3種類、2種類となり、自宅血圧のコントロールは不良。患者さんからは


「お金がないので、薬を止めてほしい」


と懇願されたが、


「この状態で薬を止めると、本当に身体を悪くしますよ」


と伝え、減薬は断った。その後数回受診してくださったが、お金が本当に厳しくなったのだろう。通院が途絶えてしまった。


毎回の外来診察で30人以上診察していると、一人、外来から離脱しても気づかないままとなることがほとんどである。そしてその後1年半ほど経った頃、不意に患者さんがやってこられた。診察室に呼び込むと、ひどい顔色で、


「先生、もう無理や。しんどうてたまらん」


とおっしゃられた。体温、36.0度、血圧210/120、脈拍84,SpO2 92%、外観はぐったりしてしんどそう。胸部聴診では全肺野にラ音を聴取。心雑音はラ音のため聞こえず。全身の浮腫は著明だった。わざわざ私の外来に来てくださったのは、これまでの配慮が患者さんに伝わっていて、信頼関係がつながっていたからだろう。ただ、どう考えてもこの状態は簡単に改善するものではない。


「これはしんどいと思います。レントゲンや血液検査をしますが、入院が必要だと思います」


と伝えた。患者さんはしんどそうな顔でうなずかれた。


胸部レントゲンではbutterfly shadowを伴い、胸水貯留もあり、著明な心拡大を認めた。血液検査では正球性貧血、低Alb血症、BUN/Cre 88.4/5.67、BNP 1582、Na 128、K 5.8,Cl 84と腎性貧血、高度の腎障害、うっ血性心不全、電解質異常を示していた。


私を主治医として総合内科に入院。人工透析科の新先生にお願いし、人工透析科共観としてもらった。入院後はブラッドアクセスを挿入し人工透析を導入。同時に新先生に日程を調整してもらい、内シャント造設術を予定、施行してもらった。


貧血についてはEPO製剤の導入で改善。透析を導入したことで浮腫は改善し呼吸苦も改善、全身倦怠感も著明に改善した。内シャントがある程度発達し、ブラッドアクセスが抜去できるまでは入院管理を行なった。内シャントを用いて人工透析が可能となるまでに1か月ほどかかったが、その後はブラッドアクセスを抜去し、状態が安定していることを確認して、退院。その後、人工透析の状態が安定し、透析クリニックへ転院するまでは、人工透析科と私の外来に通院された。


人工透析を導入すると、内部障碍者 1級となるため、医療費はかからなくなる。もともと患者さんは几帳面な人なので、転院されるまで、きっちり私の外来に通院され、お元気になられたことを喜んでおられた。もちろん私も、お元気になられて良かったと思っていた。


ただ、私の心にはモヤモヤしたものが残っていた。ただそれは患者さんに対してのモヤモヤではない。


患者さんが人工透析になったのは、高血圧のコントロールができなくなった「腎硬化症」が原因であった。私が患者さんを引き継いだ時は、まだそれほど腎機能は悪くなかった。なので、あのまま、治療をしっかり継続しておけば、患者さんは命にかかわるようなしんどい思いも、人工透析となることもなかったわけである。


本来はその時にしっかりお金をかけて治療しなければならなかったのだが、その時に、この患者さんへの医療補助はなかったわけである。


人工透析となれば、透析だけで年間500万円以上の医療費がかかり、薬代などを入れるとさらにお金がかかるわけである。ところが、人工透析を受けることで、患者さんは医療費の負担が無くなり、十分に医療にかかれるようになったわけである。


これは制度上仕方ないのかもしれないが、明らかにおかしいことだろう、と思ったことを覚えている。


最近入院された、80代、肺塞栓症、両下肢静脈血栓症後でリハビリ目的で入院された方。基礎疾患として関節リウマチをお持ちだった。


関節リウマチの治療は私が研修医のころとは大きく変わっていて、大きな変化の一つが「アンカードラッグとしてのメトトレキセート(リウマトレックス)の使用」と生物学的製剤の導入であった。ただ、これでも症状のコントロールが難しい方がいて、そういう方には、免疫系や、血液の増殖シグナルに関与するJAK(ヤヌスキナーゼ)をブロックする薬剤を使用する、という治療となっているらしい(この患者さんが入院になる、と聞いて、最新の医学情報サイト(Up to date)を検索し、知った次第である(それまではリウマトレックス+生物学的製剤、で知識が止まっていた)。


ただ、このような細胞のシグナル伝達を調節する薬剤はいずれも新薬であり、価格が高い。この患者さんが、膠原病内科から処方されていた薬は1錠2300円近くするらしい。これを毎日内服するので、3割負担なら薬代だけで30日で2万円となる。毎月病院の受診と薬代でお金がかかる、と考えると家計にとても大きな負担である。80代の方なら収入が年金だけかもしれない。だとすると1割負担となるが、それでも7000円である。大きな負担である。


ところがこの患者さん、生活保護を受けておられるので、医療費がかからない。膠原病内科医も、そのことを認識したうえで、新薬を処方しておられたのだろう。肺塞栓症で、定期通院中の病院に入院したが、薬が高価なので院内採用できない、ということで、安価なステロイド剤で管理されていた。当院でも同様である。


自分で健康保険料を支払い、保険診療を受けている人には手が出ないような高価な薬を、「生活保護」を受けておられれば、自己負担無しで使用できるのである。


これも制度上のことで、ご本人に罪はないのだが、なんとなくモヤモヤしたものが心に引っかかるのである。

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