第789話 偶然の一致…「日本経済」について、今日の新聞で二つの記事

今朝の読売新聞、偶然かもしれないが、「日本企業」の在り方を問いかける記事が2つ掲載されていた。一つは「本 よみうり堂」といういわゆる「書評」のコーナーで取り上げられていた伊丹 敬之著「漂流する日本企業」に対する櫻川 昌哉氏の書評。もう一つは「あすへの考」という、一面を使った論評記事で、大阪大学経済学研究科教授のピエールイブ・ドンセ氏の論評であった。どちらも大変興味深いものであった。


前者は、短い書評なので、ある意味その本のエッセンスや、評者が感じたことが簡潔に語られている。評者の櫻川 昌哉氏は経済学者で慶応大教授、とのこと。著者の伊丹 敬之氏も一橋大学名誉教授、とのことで、「経済学者の目から見た」日本企業の問題点を挙げている著作なのだろう。定価2650円は、あまり多くない私の小遣いを考えると「グハッ!」とする値段なので、実際に手に取ることはないと思う。なので、このような書評がありがたい。


書評に曰く、筆者が「日本経済が『失われた30年』を過ごすことになった原因」は、悪しき「アメリカ的株主至上主義」によって「設備投資」よりも「株式配当」に力を入れてきたこと、従業員に利益を「給与」として反映していなかったことに原因がある、としている。実際に直近の10年で株式配当は2倍に増えている一方で、設備投資額はほとんど変化がない、とのことである。ただ、筆者がそれ以上に問題視しているのは、「企業の内部留保」が膨れ上がり、「株式配当」を増やしてもなおかつ内部留保が積みあがっていく経営状態の中でさえ、従業員への還元や、設備投資に資金を回してこなかったことである、としていた。


随分前にも書いたことだが、近年「させていただく」という言葉が「大安売り」のように使われている。新聞のコラムだったか、この現象は「敬語」が持つ「敬意低減」という現象(その敬語がたくさん使われるにしたがって、そこに込められた「敬意」が小さく感じられるようになること)によって生み出された結果であって、そこに込められてる敬意は誰に向けられたものでもない、と結論付けられていた。


私個人はそのコラムを読んで、「少し不勉強だ」と感じた。というのも司馬 遼太郎氏の著書「街道を行く」シリーズの近江編で、近江商人たちが「させていただく」という言葉を使っていたことを「しっかりと」取り上げていたことを私は読んでいたからである。文庫本だったが、「近江」編と「奈良」編をまとめて単行本になっていたこと、たまたま身近な「近畿圏」の本だったので、「少しは教養を」なんてことを考えて買ったに過ぎないのだが、それはそれとして、近江商人のほとんどは浄土真宗(一向宗)の信徒であり、「阿弥陀如来のお働き」によって、「商い」を「させていただいている」と感じていたそうだ。なので、近江商人の「させていただく」の敬意は阿弥陀如来に向けられていたものだと私は考えている。


近江商人の「三方よし」の経営哲学は、シンプルであるが、その輝きは、今の時代においても全く失われていない。むしろ、「小難しい話」をした挙句のところが、「売り手によし、買い手によし、世間によし」の「三方よし」に帰着するように思われる。


例えば、「企業は誰のものか」という、ステークスホルダーの問題、結局は「売り手によし」とはどういうことか、という問いかけが本質であろう。株主、経営者、従業員、それぞれがそれぞれにハッピーになる商売の仕方、これが「売り手によし」だろう。現代社会が解決すべき諸問題をまとめたSDG’s、これを解決しつつ商売を進めていくことは当然「世間によし」につながるわけである。


閑話休題。著者は、著作の中で、「株主」の利益が重視され、「従業員」に利益が還元されなかったことが「失われた30年」の原因であるとみている。私の意見としても、それは正しいと思われる。「従業員」はまた、「消費者」でもあるわけだ。「従業員」への賃金を増やさない、ということは「消費者」の「消費できる能力」を結果として制限するだけである。それで経済成長する方がおかしいわけである。結局は、企業経営者の「経営マインド」が「失われた30年」を作ったわけである。


著者はそれ以上に、「内部留保が500兆円あるにもかかわらず、「従業員や株主に還元もしない」「企業投資に回すこともしない」という経営者の判断」を問題視している。「企業が投資をしない」ということは「企業自らが、自身の成長ビジョンを持っていないこと」の反映だ、と著者は喝破している。そしてその本質は、がちがちに固まってしまった企業の「保守性」と、「経営的野心の欠如」にある、としている。


おそらく換言するならば、「経営者サイド」が「このままでええがな」と思っている、ということであろう。で、現実として、30年前から、「このまま」となっているのではないか、と個人的に感じるところである。


評者は「企業」は経済学的には「利益」を分配するものとされている、と本文中で述べていた。バブルの崩壊後、あらゆる企業が痛い目にあったのだろう。「羹に懲りて膾を吹く」ということわざがあるが、ことわざ通り、内部留保の積み上げに必死になっているのは、バブル崩壊のトラウマなのだろう。あるいは、「家計の経営」のように「質素倹約、貯蓄を旨とす」という、労働者的思考に「企業」が陥っているのかもしれない。


経済は、どうしてもその時代の雰囲気に左右されてしまう。おそらく発想の転換は経営者側から始まらざるを得ないだろう。「従業員」に還元する、下請け企業に還元する、設備投資を行なう、など、「支払うべきお金」を適切に支払っていくことで、経済が回り始めるのだろう、と感じた。


もう一方の記事では「ブランド」という視点から日本企業を取り上げていた。ある程度成熟した資本主義社会で、「モノ」を売っていくためには「付加価値」が必要である。日本企業は、「新技術」や、「価格」で勝負してきたが、そのような「新技術を生産コストの切りつめ」で作った商品は、ある程度飽和している状態であり、「付加価値」をつけることが日本の企業は上手ではない、というのが論調であった。


「ブランドイメージ」を「付加価値」とすることについては、ヨーロッパ企業が長けている、というのが筆者の主張である。「歴史」というものも一つの「ブランド」となりうることは例を挙げるまでもないことである。先ほども述べたように、「消費」の主戦場となるいわゆる「先進諸国」では、「物を買う」ということは、「不足したものを補充する」というだけでなく、「生活に「新しい何か」を取り込む」ということでもある。


筆者は「ものづくりは『夢』づくり」と表現しているが、作られたものに「付加価値」として何を載せるか、ということが重要な時代である、と論じている。筆者は「ヘリテージ」と表現している。Heritageとは、「遺産、継承物、伝統」などと訳されるが、そのように企業として作り上げてきた歴史、理念、その延長線上にあるもの、ということが「付加価値」として大切な時代になっていると述べている。もちろん日本の製品も「ヘリテージ」を持っているはずであるが、そこを前面に押し出したマーケティングを行なっているか、そこを前面に押し出した製品開発を行なっているか、といわれるとなかなか難しいところがあるかもしれない。


筆者は、そのような形で、日本の生産物に「付加価値」をつけて行けば、再度「世界」を相手に日本製品は十分戦っていけるのではないか、という記事であった。


どちらの記事も、閉塞感漂う日本経済の中で、「突破口」となるべきところを示唆しているように、朝から感じた次第である。

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