第770話 永遠のジレンマか…。

今日の午前診、始まりは静かだった。自分のところに患者さんがいないと、壁一枚で隔てられた隣の診察室の会話がよく聞こえる。隣の診察室では、当院で25年近く勤務されている樋口先生が診察されている。


おそらく診察中の患者さんは古くからのかかりつけさんなのだろう。樋口先生の外来もそこまで混んでいたのだろう、二人でずいぶん長いことしゃべっておられた。会話はこちらに筒抜けである。


聞くともなく聞いていたが、患者さんの言葉に胸を突きさされるように感じた。


「先生、この前、夜中に足が痛くなって、『診てくれませんか?』ってここに電話をかけてん。そしたら、『整形外科に行ってください』って言われたわ。元畑町病院も偉くなりはったね」


元畑町病院は私の前職場である万米ヶ丘共同診療所と同時期に、やはり医療資源の少ない地域に建てられた診療所から始まった。おそらく他に医療機関のない地域であれば、昼夜を問わず患者さんが来院されたのだろう。そして院長先生はそれを断らずに診療されていたのだろうと思う。恩師の上野先生ともつながりが強く、一時期は万米ヶ丘共同診療所は元畑町診療所と同じ医療法人だった歴史もある。院長の大東先生も、恩師の上野先生も同じ思いで地域の医療を支えてこられたのだろう。


古くからのかかりつけの患者さんはそのような元畑町診療所のころを知っているから、今のように「診察の依頼を断わられる」ということに不快感を感じられているのだろう。


その気持ちはよくわかる。気軽に相談できる信頼できる医療機関、もともとは元畑町診療所、そして元畑町病院もそうであったはずであり、今もそうでありたいと考えている。


ただ、そのころの牧歌的な医師―患者関係はすでに過去のものとなっている。何かがあれば、すぐに「医療訴訟」に結びついてしまう時代である。専門外、いや専門であっても十分な検査ができない状態で「診療」を行なうことは常に危険と隣り合わせである。


さらに付け加えるなら、当院から徒歩で10分ほどの距離に、急性期総合病院である「本郷総合病院」がある。当然のごとく設備の整った「救急外来」を持ち、潤沢な設備を持ち、24時間365日重症の患者さんにも対応できる病院である。


そのような病院がすぐ近くにある中で、時間外にはレントゲン撮影もままならないことになる「内科医」ばかりの当院で、専門外である「足の痛い」患者さんを診察することの意味、意義は何だろうか?純粋に「医学的」なことだけを考えるなら、私は断言する。「意味はない」と。


ただ、純粋に「医学的」なことだけでは割り切れないのが世の中である。古き良き時代の感覚のままに当院に医療を求めてくる人を「医学的観点」だけで切り捨てるのが適切なことなのかどうか、いくら考えても答えは出ない。


原則として初期研修医、後期研修医とも、トレーニングを受ける病院は「設備の整った、地域の医療の中核となる急性期医療機関(当然大学病院を含む)」である。「家庭医療」「総合診療」を目指す医師はもちろん、僻地など、周囲に医療機関のないような診療所で一時的にトレーニングを受けることもあるが、そのような場合でも、所属は「地域の中核となる急性期病院(大学病院を含む)」である。後期研修医であれば、所属は名目上、勤務している医療機関であっても、本質的には「大学医局」であることも珍しくはない。


閑話休題。研修医の期間は原則として、そのような「大きな病院」でトレーニングを受けるのである。


私自身も生意気なことに、「私の活躍の場はICUから在宅まで」なんて言う傲慢なことを思いながら、後期研修医を過ごした。たくさんの患者さんを診察し、うまくいくこともあれば、そうではないこともたくさん経験した。ERでたくさんの救急車を受け入れたし、救急医療の現場で起きた医療訴訟(自院に限らない)の情報も耳に入ってきた。


何より、自院にある検査機器は24時間稼働しており、オーダーを出せば、午前3時であっても頭部MRIを撮影することができたわけである。自身の診察能力が低くても、検査の絨毯爆撃を行なえば、多くの場合は何かが引っ掛かってくる。引っ掛かってこないのは、「身体診察でなければ診断がつかない」神経難病や、自分の頭の中に鑑別診断として挙がっていない疾患くらい(時にはそれさえも検査で診断がつくことがある)である。


「患者さんを診察するのが怖い」とは、初期研修医のころから思っていたが、その思いをさらに強く感じるようになったのは、万米ヶ丘共同診療所に勤務するようになってからである。検査できるのは簡単な血液検査とレントゲンくらい。研修病院のように「数分」で頭部、胸部、腹部のCT画像が得られるわけではなく、1回CT撮影をすると、機械を冷やすのに30分かかるような機械しかない。MRIなんてもってのほかである。


それでも診察時間内は頑張った。「この時間帯は診察します」と宣言しているわけである。診察受付した人を、「この人は診れない」と断ったことはない。新生児の発熱など、速やかに高次医療を要する人にはすぐに転院調整、紹介状作成をしたりしていた。内科、小児科を標榜していたが、「子供が滑り台から落ちた」「遊んでいたら肘が抜けた」など、「それは外科では」という患者さんも診察して、自分で対応できるものは対応し、紹介が必要であれば紹介状を書いていた。なぜなら、「この時間帯は診察します」と宣言しているからである。


問題は「時間外診療」である。その性質上、時間外外来に来る人は「急性疾患」である。内科的・小児科的疾患だけではなく、外傷も、である。


元畑町診療所(元畑町病院)や、万米ガ丘共同診療所は、もともとの出発点が「医療の乏しい地域に医療を届けるため」に設立した診療所であった。その当時であれば、時間外外来であっても、病気やけがで困っている人を積極的に診察することが使命であったことと同時に、社会的に「医師」への尊敬の念があり、あまり「医療訴訟」を心配する必要のなかった時代であった。元畑町診療所の創立は失念したが、万米ガ丘共同診療所の設立は昭和38年(1963年)。創立後半年から、平成30年(2020年)まで、24時間365日、時間外も含め患者さんを受け入れていた。


この間の60年近くで、医療を取り巻く環境も、地域の医療環境も徐々にではあるが、ダイナミックに変化してきた。万米ヶ丘共同診療所を中心として、半径10kmの円を描けば、その間に、地域の中核となる急性期総合病院が数個、国立の専門医療センター、大学病院などが入ってくる。ここ元畑町病院も似たようなものである(国立の専門医療センターはないが、大学病院が2つ入ってくる)。


また、医療訴訟も当初のころとは比べ物にならないほど頻度が増えている。


「専門医でないとわからないような微妙な所見を非専門医が救急外来で見逃し、患者さんが亡くなったら医師の有責」


「十分な設備がない医療機関で救急患者さんを受け入れ、そのために患者さんが亡くなったら、医師の有責」


「受け入れる医療機関がない、と救急隊が非常に困っていたため、設備は不十分だが、いったん患者さんを受け入れ、転送先を探して患者さんを転送できたが、転送にかかった時間が長かったため、患者さんが死亡したら、医師の有責」


という判例があり、当然裁判は前例を踏襲することが多いため、もし同様のことが起きれば、私の責任を問う、という事にもなりかねない。


極めて悲しいことではあるが、これが「司法の視点」からみた「救急医療のあるべき姿」なのである。法治国家である以上、我々も「法」に沿って動かなければならない。となれば、法的に問題、とされた行動をとるわけにはいかないのである。これだけ規制されれば、近隣に十分な設備を持つ高次急性期病院があれば、設備のない「診療所」や「小規模病院」で時間外患者さんや救急患者さんを受け入れることそのものが「法的に極めて問題のある行為」と解釈されるのは当然のことだろう。


くしくも昨日、私がよく閲覧するネットまとめサイトを眺めていると、日曜日に頭をケガしたお子さん(年齢は不明)を持つお母さんの「X」への投稿と、それに対する「医師たちの返答」が取り上げられていた。


お母さんの投稿では、日曜日に子供が転倒して頭をぶつけ、頭部から出血がダラダラと出ている状態だったが、子供の意識ははっきりしていた。電話で近隣の救急病院すべてに電話を掛けたが、「診察できない」とのこと。やむなく救急車を呼んだが、救急隊が病院を当たってくれても、受け入れ病院が全くなかった、とのこと。一時的に出血している傷口の処置くらいしてくれて、翌日脳神経外科受診でもいいではないか。それくらいなら、外科医であればできるだろう。それすらしない外科医は税金の無駄遣いだ、というものであった。


それに対する医師の反論は「仮に受け入れて、精査をしたら脳挫傷が見つかった。自院に脳神経外科医がいなければ『なぜ受け入れたんだ』と訴訟になる可能性がある。傷口の処置だけして、その後、子供が急変すれば『なぜもっとしっかり診てくれなかったんだ』と訴訟になる可能性がある。これまで「善意」でそのような患者さんを診てくれていた医師はことごとく訴訟で心を潰してしまったのである。このような状態を希望したのは「患者さん」たちではないのか?」


というものであった。現実問題として、「子供」が絡むと訴訟のリスクは跳ね上がるだろうと容易に推測される。「診てくれる病院がない」という事は深刻な問題であるが、司法判断を振り返れば、「触らぬ神に祟りなし」を推奨しているとしか思えない判例だらけである。


航空機や鉄道の中で「誰かお医者さんはいませんか~!」という声に善意で答え、その場でできる精一杯のことをしたが、高次医療機関での精査で、その処置に一部不適切なものがあった、となれば、訴訟される日本である。心肺停止状態の女性にAEDを使い、救命できてよかった、と思っていたら、「AED装着の際に胸を見られた。配慮が足りない」という事で訴訟される国である。


諸外国では「善きサマリア人の法」として、そのような状況下で、故意とみなされない過失についてはその責任を問わない、という法律が整備されているところも珍しいことではない。


閑話休題。そんなわけで、当院の当直医(常勤ではなく、大学医局から当直医を派遣してもらっていることが多い)が、近隣に設備の揃った急性期病院があるにもかかわらず、自院の専門外、と思われる「足が痛い」という患者さんの主訴を確認して、「近くの総合病院に行ってください」というのは、「医学的判断」としては「適切」だと思われる。ただ、長年「かかりつけ」で頼りにしていた病院から「診れません」と言われて、「何でやねん!」と憤慨する気持ちもよくわかる。


少なくとも私自身は、研修病院を離れてからは、常にそのジレンマを感じながら仕事をしている。誠意と善意をもって仕事に当たっているが、それでも理不尽なクレームは来るわけである。医師も人間。誠意をもって事に当たり、結果だけを見て責められるのはたまったものではない、と感じるのは一緒なのである。

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