第766話 ダメだ…、手の施しようがない…。

なんてことを口にすることは決してないが、実際のところ、ただ見守るしかない、という状況は臨床医をしていれば幾度となく直面する。


土曜日の午前診。いつものように診察を続けていた。クラークさんが、


「次の患者さん、丸田先生(当院の常勤医)の訪問診療を受けている方です」


といってカルテを回してきた。


「昨日来られてたら、丸田先生の外来やったのにねぇ」


とおっしゃられている。


カルテを確認する。直近の記載は、在宅部の看護師さんの字なのか、医事課のスタッフの字なのか、分からなかったが


「『右の足趾の色がおかしいので、受診を強く勧めました』と訪問看護ステーションから連絡あり」


と昨日の日付で書いていた。多分、丸田先生の外来に間に合わなかったんだろうなぁ、と思いながら、カルテを繰っていった。一月下旬の訪問診療の際には丸田先生の字で


「足趾の冷感強い」


と記載があった。年齢は90代の女性。今日は息子さんが連れてこられたようだ。問診票にも


「訪問看護師さんから、足を見てもらうよう言われました」


と書いてある。


患者さんを呼び込んでもらった。息子さんの押される車いすに座られているご本人は、なんとなくぐったりしていて活気もない。


「こんにちは。初めまして。内科の保谷です。今日はどうされましたか?」


といつものように診察を開始する。


「えっ?いや…。訪問看護師さんが『足の色が悪いから見てもらえ』って言われたから来たんですけど…。聞いておられませんか?」


と少しムッとした感じで息子さんが答えられる。


「はい、カルテにはもちろんその旨書いていますよ。ただ、診察室で聞いてみると、もっと別の問題の方が大きかった、ということもあるので、常に確認させてもらっているんですよ。右足の指の色がおかしい、ということですね。確認させてもらいます」


と伝え、靴下を脱がせた。ご本人はぐったりした様子でうつむいたまま、発語もない。身体を触れた感じは熱感はなく、看護師さんの確認してくれたバイタルサインも悪くはなかった。


手の指は親指→小指まで、1~5の番号が振られている。もちろん同じルールで足の指も1~5と番号が振られている。右第2趾はMTP関節(趾の付け根)から先が真っ黒になっており、3,4趾は、足の遠位1/4あたりから紫色になっている。おそらく、第2趾はMTP関節付近で動脈2本(手も足も、指は両側方に動静脈、神経が走行しており、指の中で互いに吻合している)が閉塞し、虚血、壊死を起こしているようだ。第3,4趾はどうも動脈弓(足に行く動脈は足の趾の手前で弓状になっており、そこからそれぞれの趾に行く血管が分岐していく構造になっている)の分岐部から虚血状態となっており、「壊死」とはなっていないものの、循環不全でcyanosisを起こしていると思われた。


足趾に向かう動脈である、足背動脈の拍動を確認しようとしたが、しばらく探しても拍動は触れなかった。


少なくとも左足(医学的な「足」とは「足関節(足首)」より遠位(先)を指す)はある程度の太さの動脈も加齢による動脈硬化で血流が低下しており、それに加えて、さらに小さな血管が狭窄、閉塞したことで、足趾の虚血、壊死を起こしたのだろうと思われた。


虚血趾や壊死趾には、残念ながら改善すべき手立てを持たなかった。まさしく


「ダメだ…。手の施しようがない…」


という状態である。あとは、この状態をどのように息子さんに伝えるか、が問題である。言葉を選びながら、息子さんにお話を始めた。


「あぁ…。2番目の趾は付け根のところから黒く変色していますね。この趾は、血流が途絶えて「壊死」しています。3番目、4番目の趾は、ここ(足背)から変色していますよね。この辺りに「動脈弓」という動脈が弓のようになっている構造があって、そこからそれぞれの足に行く血管が分岐しているのですが、おそらく、分岐した血管が詰まりかけて、血流も悪くなっているのでこのような紫色になっています。この2本もおそらく壊死してくると思いますが、如何ともしがたいです。『これをすれば良くなる』という処置はないとお考え下さい」

「先生、黒くなった指は切断したりはしないのですか?」

「おそらく、足全体の血流がかなり落ちていると思うので、仮に切断したとしても、切断後の皮膚がくっつかないので、かえって厄介なことになると思います。そういう点でも、『何もできない』ということです」


「そうですか・・・。」

「あの、息子さん、高齢の方でこのように手足の指や、場合によっては腕やふくらはぎから壊死する場合はしばしば経験します。丸田先生もカルテに書いておられ、私も今お母様を診察しましたが、基本的にはそのような状態を起こす、ということは足という局所だけでなく、全身の状態が悪い、ということだとお考え下さい。


薬は、えーっと、アスピリンとクロピドグレルの2種類、血液をサラサラにする薬を飲まれていますね。であれば、「血をサラサラにする薬」は十分だと思います。末梢の血管を拡張することで、血流を改善する効果があり、しもやけなどに使う『ビタミンE』のお薬があるので、丸田先生の訪問診療のある、火曜日までそのお薬をお出しします。これで経過を見てください。お身体はずいぶん弱られているようにお見受けされます。いつ旅立ちの時が来てもおかしくない、という心づもりはしておいてください」

「そうですか。わかりました。ありがとうございました」


ということで診察は終了、ビタミンE製剤を処方して経過観察とした。カルテには丸田先生宛てのメッセージを残しておいた。


患者さんはぐったりして活気はなかったが、衣服は整えられており、息子さんはしっかり介護をされているようだ。「寿命」といえば「寿命」だろう。


“Human is mortal.”、人はいつか亡くなる存在である。その理からは誰も逃れることができない。そのような場面に遭遇するたびに、私は言葉を失ってしまう。

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