第763話 それって「二次創作」というのではないか?

「セクシー田中さん」問題を受け、シナリオ作家協会が脚本家たちの対談をYouTubeにupしたところ、炎上し、慌てて動画を非公開、としたそうだ。


デジタル時代、というのは恐ろしいもので、その動画や、脚本家それぞれの発言がいわゆる「魚拓」として、ネット上に残ってしまう。私のよく見るサイトでも、その問題と「魚拓」を確認できた。


脚本家、と言っても様々な人がおられ、三谷幸喜氏や、宮藤官九郎氏など、自身でオリジナルストーリーを作り上げることができる方、こういった方が作ったオリジナルストーリーの脚本、これは誰かが手を入れる必要はない。


ところが、小説やマンガなど、別媒体のものを映像化するには、いわば「通訳」のように「原作」の世界を「映像の世界」に落とし込むことができる人が必要になる。今回の「セクシー田中さん」問題で取り上げられている脚本家の方は、マンガである「原作の世界観」を「実写」の世界に翻訳するのが仕事ではないか、と私は思っている。


動画が非公開になってしまったので、「魚拓」の引用となってしまうのは不正確、というのは理解しているうえで、この対談での発言集を見てみた。一部は音声として聞いている。


発言の一部を引用すると


「最近の原作者はこだわりが強いんですよねぇ」

「脚本家と原作者は同じ作家だから衝突して当然。それはしょうがない」

「悲しいかな原作通りにやってほしいという人がたくさんいる」

「私は原作者とは会いたくない派。大事なのは原作であって、原作者は、まぁ関係ないかな」

「トレースじゃ作家が育たない。文化が縮小していく」


などなど。


小説の投稿サイトには「二次創作」も一つのジャンルとして挙げられている。有名な作品の登場人物や世界観を借りて、そこで自分のオリジナルストーリーを作るものである。「二次創作」も投稿サイトの一つのジャンルとして取り上げられるように、一つの「文化」としては成り立っているが、厳格に言えば、「著作権の侵害」であり、「二次創作」が許されるのは、一つは「原作者の『お目こぼし』という厚意」ともう一つは「『二次創作である』と明確にすること」である。著作権に厳しいディズニーや任天堂のキャラクターで、許可なく二次創作を行ない公表すれば、二次創作者はえらい目にあうことになるだろう。


「二次創作」という視点で考えてみるとスッキリするのだが、この動画に参加された脚本家の方々は、結局のところ自分たちは「二次創作」をしたい、という事ではないだろうか、という印象を受けた。先に私が述べたように、「まんがや小説」という原作を「映像の世界」へと翻訳する「通訳者」ではなく、原作の世界観を基に「自分のオリジナリティ」を出したい、と考えている人たちなのではないか?という印象を受けた。


それを象徴する発言の一つが、上記の中の


「脚本家と原作者は同じ作家だから衝突して当然。それはしょうがない」


という発言だと思う。脚本家を「他のメディアへの翻訳者」と考えているならば、「同じ作家」という発言はしないだろうと思われる。


実際に作家が「翻訳者」となる例は枚挙にいとまがないほどである。詩人の中原 中也はフランスの詩人アルチュール・ランボーの詩を翻訳しているし、毎年ノーベル文学賞受賞候補と目されている村上 春樹氏も、90冊以上の作品を翻訳し、訳本は高い評価を受けている。


当然「翻訳者」「通訳者」も人間なので、その訳語に、その人なりの色が出るのは避けられない。それでも通訳者、翻訳者は原作者の意図を汲んで、可能な限り、その意図を壊さぬように注意しながら翻訳をしていく。村上 春樹氏の「翻訳本」に対する論評を読んだことがあるが、原作者の意図を壊さぬよう注意を払って訳しているが、それでも訳文の中には「村上 春樹」が存在する、とあったかと記憶している。


脚本家が「二次創作家」ではないか、という疑問は、次の発言からも推測される。


「最近の原作者はこだわりが強いんですよねぇ」


原作者は当然、一言一句にまでこだわって作品を作っている。今回の「セクシー田中さん」問題でも、原作者の芦田氏は、「原作のとおりに」という約束のもとでドラマ化を承諾したと報道されている。芦田氏はもともとドラマ化を断っていたのである。


「悲しいかな原作通りにやってほしいという人がたくさんいる」


という発言もあるが、「悲しいかな」とはどういう事だろうか?原作を気に入っている人は、「原作がどのように再現されているか」という事を気にして見るだろうし、何より、「ドラマ化」に至ったのは、その原作が「素晴らしかった」からではないのか?そのような作品の世界観を壊さずに映像化する、という緊張感はないのだろうか、と疑わざるを得ない。


「トレースじゃ作家が育たない。文化が縮小していく」


という発言は、まさしく自分たちが「二次創作者」だという事を明言している言葉ではなかろうか?


先ほども言ったが、「二次創作」は本質的には「違法」のものであり、原作者のお目こぼしで罪に問われないだけである。しかも「二次創作」と明記しているわけである。


脚本家が、自分の脚本通りに演じてほしい、と感じているなら、明確に「二次創作である」と明言しなければならない。そうでなければ、脚本家は「原作者」の「映像化への通訳」として振舞うべきである。


我々は小学校の時代から、学生時代「国語」を学んできているはずである。なかなかこれは難しい学問で、同じ一文を読んでも、人によって解釈や感じ方が異なるので、明確な「正解」を答えづらい教科ではあるが、やはり入学試験でも問われる教科であり、いわゆる試験には「正解」が存在するわけである。論説文では著者の文章から「著者が組み立てた論」を読み取り、小説文では「登場人物の心情風景」を読み取り、そこから「著者がこの文章で伝えたいこと」を読み解く、というのが「国語」という学問で「正解」が「正解」足りうる根拠となっている。


という事を考えると、


「私は原作者とは会いたくない派。大事なのは原作であって、原作者は、まぁ関係ないかな」


という発言についても、「原作者と会う会わない」は別にして、「原作」を大切にする、という事は、「原作者」の「作品に込めた思い」と真摯に向き合う事ではないか、と思うのである。であるなら、「原作者は関係ない」と言い放つ感覚はどうなのだろう、と考えてしまう。


ずいぶん長くなってしまったが、今回の文章を要約するなら、


動画で公開された「脚本家の対談」での発言を聞く限りにおいては、登場した脚本家たちは、「原作」を元にした自分の「二次創作」を映像化の脚本としており、しかも自分たちが「二次創作」をしていることに気づかず、自分たちを「表現者」だと考えていることが分かった。この対談に参加している人たちの中に、「原作者や作品に対するリスペクト」というものは存在せず、「作品の中で原作者が丁寧に作り上げた世界観」などは「どうでもいい」と思っている人たちだと分かった、という事であった。


これは単純に脚本家だけの問題ではなく、「映像化」にかかわる「制作者」側の問題であろう。役者さんは与えられた脚本を自分なりに解釈し、演技をされているわけで役者さんの問題ではないことは明確にしておきたい。


脚本家の方の多くがもしこのような考え方を持つ人たちであるならば、「原作者」はやりきれないだろうなぁ、と思った次第である。

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