第355話 もうすぐお別れ

実家の売却の話も進んできていて、今日は浜松から一族郎党が出ずっぱってくるとのことで、それに合わせて、私も実家に行ってきた。


朝食を食べ、母親にどの辺りまで来ているか、家を出る前に尋ねた。


「いま、コーナンの近く」とのこと。


実家近くの幹線道路沿いにあるホームセンター「コーナン」の辺りまで来ているのか。もう家を出ないといけないな、と思い、


「わかった。今から家を出るわ」と伝えて電話を切り、家族に「ほな、出かけてくる」と伝え、スリッパをもって家を出ようとしたところで、また母から電話が。


「ちょっと待って、お父さんの声、聞こえる?」

「あぁ、今なぁ、ちょっと道が混んでて、『甲南IC』の辺りやわ。まだちょっとかかるから、近くについたらもう一度連絡するな」


と電話の向こうで継父の声。あぁ、びっくりした。「甲南」と「コーナン」か。電話をかけ直してくれて助かった。家族に、「『コーナン』じゃなくて『甲南IC』やったわ。もうちょっとゆっくりするわ」と伝える。妻から、「『コーナン』ていうても、いくつも『コーナン』あるでしょ。どこのコーナンかも伝えなかったんやから、そこで『おかしい』って思わな」と笑われた。慌てんぼの私である。


それから30分ほどして、「久御山まで来た」と母の電話越しに継父の声が聞こえ、家を出かけることにした。


日曜日の朝、道路はそれほど混んでいるわけでもなく、スムーズに実家についた。実家の前には両親の車が止まっているので、反対車線に、交通の邪魔にならないように車を止めさせてもらった。


「おはよう」と声をかけると、両親からも「おはよう、お疲れさま」と返事があった。ちょうど1階の片づけを継父と母がしているところであった。


「あんた、必要なものとか、大丈夫?」

「ああ、うちに必要なものはもう持って帰ったから大丈夫やで」と返事をし、すこしばかり継父の手伝いをする。


そういえば、2階には母と弟のアルバムが置いてあったはずだ、と思い出し、2階からアルバムを持って降りる。


「こっちがお母さんのアルバムで、こっちは△△(真ん中の弟)のアルバム」

「おぉ、ありがとう」


母のアルバムには、祖父母も伯母、叔母も写っているのは前回確認した。ルッキズムの問題があるので、大声では言えないが、若いころの祖母、伯母、母、叔母の4人のうちで、母が一番イケてない(ごめん)。ほかの3人は別嬪さんなのに、ちょっともったいない。とはいえ、年を取った今の母は、私の記憶にある祖母の顔とそっくりだ。そういう点では、血は争えないものだと思う。さらに言うなら、母の子供3人の中で、私が一番母に似ているといわれる。見た目問題では、私は昔からイケてなかったわけで、まぁ、そんなものかなぁ、と思ったりした。


私が昔の夢を見るときには、多くは、父方の祖父母の家が舞台になっていて、実家が舞台になることはなかった。私は祖父母にとって初孫であり随分かわいがってもらったこと、実家が庭もない小さな長屋の1軒だったのに対して、祖父母の家はそれなりの庭があり、面積的には、おそらく今私と家族が暮らしている家よりも広かったであろうことなど、いろいろな思いが祖父母宅にはあるのだろう。


祖父母の家を処分するときには、私はまだ医学生で叔父二人と私の3人で(私の真ん中の弟も相続権はあるのだが、未成年ということで私が代表として)手続きを行なった。土地の売却価格は、今の私なら容易に出せる金額(立地を考えると、だいぶ叩かれたようだ)だが、あの時の何物でもない、何も持たない私ではとても手を出すことはできず、叔父たちの意見に従って手放さざるを得なかったことを、心のどこかで今も悔やんでいるのだろう。


10年ほど前に一度、子供たち、妻も連れて、かつて祖父母の家があったところを見てきたが、手放した当初は「そこに集合住宅を造る」という予定だったと記憶していたが、新しい家が建っていた。大阪市内で駅近で、結構な面積の土地なので、おそらく今の私でも容易には手が出せない金額が付くのだろう。そんなことを思いながら、その場を離れたのだが、夢に出てくる家は、昔の祖父母の家そのままである。「実家に思い入れはないのかなぁ」と、祖父母の家の夢を見るたびに思っていた。


片付けている途中で、自分の立っている場所から斜め後ろにあった階段がふと目に入った。「そういえば、子供のころ、階段からよく飛び降りたなぁ」と子供のころを思い出した。小さなころは1段目から、幼稚園に入ったころは2段目から、小学校低学年には3段目から飛び降りれるようになっていたことを思い出した。子供のころにはずいぶん勇気のいることだった。「そういえば、そんなこともあったよなぁ」と昔を思い出した。もちろんもう少し大きくなれば、4段目からも飛び降りることができるようになっていたであろうが、それだけ成長すれば、もう「階段から飛び降りる」なんて馬鹿なことはしなくなる。


そういえば、子供のころ、「お年はいくつ」と聞かれて、3つや4つの時は片手で指を立てて年齢を伝えていたが、6歳になった時、「これで、両手で年を表さないといけないくらいに大きくなった」と思ったことがあったが、もうそれくらいになると、「お年はおいくつ?」と聞かれても指で数字を表すようなことはしない。


節分の豆まきで、「豆を年の数だけ食べる」という習慣があるが、これも子供のころ、「大きくなったら、たくさん豆を食べるんだ」と思っていたことも思い出した。今のようにおっさんになってしまうと、「年齢の数だけ豆を食べる」のは、ある種嫌がらせに近いものがある。そんなことを思い出してしまった。


階段に腰かけ、少し物思いにふける。高校生のころもよくこうやって階段に座っていたよなぁ、と思い出す。懐かしい感じがする。でもそれも今日で終わりである。


押し入れから、両親の家に持って帰る布団を布団袋に入れて袋を閉じる。袋詰めは継父と私で詰め込んで紐掛けを行ない、車には私が積み込んだ。継父のいるところで、布団袋を担ぎ上げていると、20代前半の大学生のころ、継父の職場で、継父やその同僚の方と一緒に引っ越し屋さんのバイトをさせてもらっていたことを思い出す。


「懐かしいやろ」と継父が言う。「ほんまに懐かしいなぁ」と言いながら、布団袋を抱えて家の外に出した。あの頃は継父は40代、私は20代。今は70代と50代である。お互いずいぶん年を取ったものである。


「たしかなぁ、ここに『チーズフォンデュ』のセットがあったはずやねん」と母が台所の吊戸棚にあった緑色の箱を指した。母の身長では届かないので私が取った。


「そう、これこれ」と母は言うが、箱の内側のクッション材にはGの卵鞘がたくさんと、おそらくGの糞もたくさんついていた。


「お母さん、これ、Gの卵だらけやで」と言いながら、包装を開けていく。確かに中はチーズフォンデュ用の器具だった。ものはビニールでくるまれて、美品だが、箱と中のクッション材は卵鞘とGの糞で一杯だった。母は箱を持って帰ろうとしたので


「いや、お母さん、この箱と、クッション材はもうほかそう(ほかす=捨てるの意)」と説得して、箱とクッション材は置いていくことにした。フォンデュの、食べ物を突き刺すものは先端がとがっているので、布テープで保護した。


そんなこんなで片づけをしていると、弟夫婦も荷物を取りに来た。両親より1時間遅れで浜松を出発したそうな。


「あんたのアルバムとか写真、父上(私は継父をそう呼んでいる)の車にも積んであるから」

「おう、分かった」


と弟とやり取りをする。弟たちは主に2階を片付けてくれた。弟は昔から言葉がぶっきらぼうで、義妹に対しても、傍で聞いていて「エラそうな言い方」に聞こえてくる。余計なお世話であるが、


「あんたなぁ、夫婦仲良くしたかったら、あんたの言葉遣い、何とかした方がええで。聞いててヒヤヒヤするわ」と思わず苦言を呈してしまった。


弟たちが2階から降ろしてきたものを、弟たちの車に積み込んでいく。それなりに積み込み、必要なものはほぼ引き取ったはずである。義妹は丁寧に、食器棚の引き出しを確認してくれた。引き出しの中から実父の写真を見つけてくれた。父は多分20~30代だったのだろう。若い写真だった。その中に1枚、母とペアルックで写っている写真があった。見た目からすると、多分私も弟も生まれた後のような感じなので、30代くらいなのだろう。両親がペアルックを着ているのを見た記憶はないので、いつ頃の写真かは分からない。ただ、ペアルックはよく似合っていて、母もいい感じで写っていた。なるほど、これなら父が母に惚れたのも分からなくはない。


そんなこんなで、片付けを終え、両親、弟夫婦と私の5人で昼食を食べて解散した。

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