第310話 「思考」の自由、「表現」の自由と、自らの立場

私の記憶が確かであれば、「自由主義、あるいは民主主義」の基本的思想の一つに、「あなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあったと記憶している。ネットが発達すると、私の足りない脳みその代わりをしてくれるようで、これはフランスの思想家ヴォルテールの言葉(ただ本人の書物からはその表現は見られないそうだ)とされている。


過日、荒井首相秘書官が「問題発言」を理由に更迭された。本日(2/5)の読売新聞の報道では


<以下引用>

首相は4日夕、視察先の福井県坂井市で、「今回の発言は、多様性を尊重し、包括的な社会を実現していく内閣の考え方に全くそぐわない言語道断の発言だ。任命責任を感じている」と記者団に述べた。

(中略)

荒井氏は3日夜、首相官邸で取材源を明らかにしないオフレコを前提とした記者団の取材に対し、「(同性婚カップルが)隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と発言した。同性婚の法制化についても、「(首相)秘書官はみんな嫌だと言っている。認めたら、日本を捨てる人も出てくる」などと語った。

 荒井氏は3日深夜、再び取材に応じ、「やや誤解を与えるような表現をし、大変申し訳なかった。あらゆる発言に気を付ける」と謝罪し、発言を撤回した。

<引用ここまで>


という経緯である。私個人的には、荒井氏の「更迭」は適切な対応だと考えているが、その根拠や横たわる問題については、より深く議論を行なう必要があると考えており、その点で岸田首相の発言は不十分である、と思っている。その根拠が先ほど述べた、


「あなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」


ということである。


度を過ぎたヘイトスピーチは当然、ターゲットとなる人たちへの「傷害罪」となり犯罪ではあるが、誰もが、何らかの形で「好き嫌い」を有しているのは当たり前のことである。


今回はLGBT(Q)に対しての「嫌悪感」を表明したことが問題視されているが、仮に、「性的嗜好性」という点で考えてみれば、きわめて多数の性的嗜好性が存在している。精神医学の分野では”Paraphilia”(para:横、philia:愛)と表現され、直訳すれば「横に逸れた愛」とでも訳すのであろうか。この”Paraphilia”の中にかつては同性愛も含有されていたが、アメリカでは1973年に、WHOでは1990年に、日本では1994年に「治療の対象とはならない」とのことで「性的嗜好性の異常」からは除外されている。


Paraphiliaは当然社会的、文化的状況によって変化(それが病的なものなのか、当たり前のものなのかは文化的、社会的状況によって規定されている)するため、精神医学での「疾患」としての定義は


1. 当人が自分の性的嗜好によって、心的な葛藤や苦痛を持ち、健康な生活を送ることが困難であること

2. 当人の人生における困難に加えて、その周囲の人々、交際相手や、所属する地域社会などにおいて、他の人々の健康な生活に対し問題を引き起こし、社会的に受け入れがたい行動等を抑制できないこと


と規定されている。このparaphiliaについては互いの承諾があれば合法なもの(サディズム・マゾヒシズム)もあれば、仮に承諾があったとしても非合法であるもの(ペドフィリア(小児性愛)のなかでもミドルティーンに対する性愛など)も存在する。


例えば仮に、報道された荒井氏の発言を一部改変して「(違法な児童ポルノは所有していないが、違法とされない小児性愛創作物を多数所有している小児性愛者が)隣に住んでいるのは嫌だ。見るのも嫌だ」と発言していたら、その発言はどうとらえられていただろうか?同性愛と小児性愛、「性的嗜好性」という点では本質的に等価のものであろうと私は思う(法的には別ではあるが)のだが。仮にこのような発言であれば、岸田首相は同じように語るのであろうか?もしくは、性的嗜好性ではなく、「(反社会勢力の構成員が)隣に住んでいるのは嫌だ。見るのも嫌だ」と発言すればどうだったのだろうか? 


私が言いたいのは、荒井氏が何を好きで何を嫌いか、という信条については誰からも制限を受けるものではなく、「私人」として「好き嫌い」を表明する自由を有している(もちろん程度の問題はあるが)、ということである。


ただ、内閣をサポートする「公人」として、そのような思想を持っていることが「内閣」の目指しているものと異なっている、ということであれば、「内閣の在り方と、本人の考え方に不一致があり、内閣やそれをサポートするメンバーとしては受け入れられない」という理由で更迭するべきものであろう。少なくとも「言語道断」という表現は不適切であろうと思う。


繰り返しになるが、大切なことなのでもう一度記載する。民主主義、自由主義の在り方の大きな視点の一つは、


「あなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」


ということである(法律に反しない範囲で、という注釈はつけても良いと思うが)。


私が不愉快だ、と思うことは、この発言が「取材源を明らかにしないオフレコを前提とした取材」の中での発言だ、ということである。私は記者団は、この前提をしっかり守るべきであったと思っている。少なくとも、公的メディアで全国民に発信するものではなく、少なくとも社内で留め置き、今後の施策について、荒井氏の発言に意識しながら監視を続け、適切な批判を行なうのが、適当ではないだろうか?


きついことを言うなら、「荒井氏は同性愛者に対して差別的であり、マスメディアは荒井氏に対して大ウソつきであった」というのが真相だろう。


マスメディアのある種、偏向的報道に対しては辟易すること多々である。週刊誌でよくみられるが、「『公明党』は政教分離に反した政党である」という批判。その割には、「幸福の科学」が「幸福実現党」を結党し、活動していることに対する批判は目にすることがない。


そして何よりも、自由民主党に所属し、第55代内閣総理大臣であった「石橋湛山氏」が総理大臣就任時も日蓮宗の僧籍を持ち、総理大臣に就任したことで、僧階が特進し、僧階で第二位の「権大僧正」となった、ということに全く触れないことである。


「創価学会は政教分離に反している」という人たちは、「日蓮宗の現職僧侶が総理大臣となり、しかもその就任をたたえて宗門が僧階を特進させた」という事実に対しては、何と言うのだろうか??また、どうしてこのことには一切触れないのか?疑問でならない。


「性的嗜好性」であったり、「主義信条」の違いであったり、あるいは「日常の振る舞い」であったりと、様々なことで「人」対「人」の関係での好き嫌いが出てくるのは致し方ないと思う。「私人」として、常識の範囲内で「好き嫌い」を述べるのは許容されるべきである。その一方で「公人」としては、「私人」としての好き嫌いを超えて、適切な振る舞いが要求されるのも当たり前のことである。


という点で、荒井氏の更迭は適切であったと思うが、それに対する岸田首相の発言は不適切だと思われる。「言語道断」というなら、「LGBTQ」の人の存在を「許容しない人」を「許容しない」という自家撞着を起こしているのではないか、それもまた「公人」としての在り方として不適切(本当の意味での「多様性」を許容していない)だと思われる。


そして、「取材源を明らかにしないオフレコ」という名目の取材で得た情報を公開した記者は、「人としての信義を守らない『卑怯者』である」というのが私の感想である。

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