第266話 あれ?予定入院のはずなのに?

今日は一人、予定入院で来られる方がおられた。当院のような慢性期、療養型の病院では入院の多くは、急性期病院からの紹介で、病状の安定された方を「〇月◇日の10時に受け入れます」という形で来ていただき入院とすることが多い。もちろん当院は在宅診療を行なっているので、在宅患者さんや、古くからのかかりつけの方で、当院で対応できる程度の疾患であれば緊急入院も受け入れているが、数はそれほど多くはない。


というわけで、いつもと同じように、患者さんの来院時刻に病棟に降りて、患者さんの来棟を待っていた。患者さんは100歳の方で、基礎疾患として心臓弁膜症(大動脈弁狭窄症:Aortic Stenosis、以下ASと略す)とそれに伴ううっ血性心不全を持っていることが分かっていた。高齢の方は亡くなりやすい、と前文で書いたが、もう少し細かく言えば、100歳まで生きておられる方は、比較的お元気な方が多い(元気でなければ、その年齢にたどり着く前に亡くなってしまう)。長寿なご家族を持つ家系は、比較的長寿であることが分かっており、遺伝的に明確にはなっていなかったと記憶しているが、何らかの「長寿」に関する遺伝子があるのだろう。


この方も既往歴を見ると興味深いことに、80歳でASの手術を受けておられるのである。20年前は、ASの手術は心臓を止めて行う「大動脈弁置換術」しかなかったと記憶している。壊れた弁を取り換える手術、ということになるが、交換する弁は金属でできた人工の弁(人工弁、あるいは機械弁)と、主にブタ(心臓のサイズが人間と似ている)の大動脈弁に処理をして作成した弁(生体弁)の2種類がある。


人工弁は、トラブルが無ければ半永久的に働き続けるが、人工のものが血液に触れると、血液が固まってしまうため、血液を固まりにくくする「ワーファリン」という薬を一生飲み続けなければならない。一方、生体弁は、術後、血管の内側を覆う内皮細胞が弁を覆ってくれるので、ワーファリンを飲む必要はないが、他の動物の弁を化学的に処理しているのでどうしても耐久性には劣り、生体弁は15~20年で壊れてしまう、と言われている。


ワーファリンを使用すると、一つは適切な薬剤量の調節のため、定期的に血液検査でワーファリンの効果を評価し、微調整する必要があること、妊婦さんには使えないこと、消化管からの出血や脳出血を起こすリスクが非常に高まることから、人工弁は若くて、妊娠の予定のない患者さんに使われることが多い。


一方でワーファリンの使用のリスクの高い方(妊娠を希望する若い女性や、高齢者)には生体弁を選択することが多い。この方も80歳で手術を受けておられ、ワーファリンのリスクを避けたのだろう。生体弁で弁置換術を受けておられていた。この方の今のASは、この交換した生体弁がまた硬く、狭くなってきた、とのことだった。さすがに100歳では手術をすることはできない。20年前に生体弁を選択した医師も、多分100歳まで長生きされる、とは思ってなかったのではないか、と思ってしまう。


閑話休題。ASに起因するうっ血性心不全の方の生命予後は不良であることが分かっている。なので、この方の予後も厳しいが、100歳ともなれば、医学という学問を超えた世界の住人である。いわば「神様の領域」なのでご本人のお体に従うのが賢明である。


さて、そんなわけで患者さんを待っていると、1階でCOVID-19の検査をしてくださっていた病棟師長から電話があった。


「今来院された☆▽さん、酸素1L(/分)で来られたのですが、SpO2 86%でぜーぜーしています。血圧は190台です。先生、どうしましょう」とのこと。


事前情報では、当初は酸素は付けなくても大丈夫、とのことだったが、来院前日(すなわち昨日)、O2を0.5L(/分)で投与しています、と新たな情報を受けていた。それでも0.5L/分という話だったわけである。当院に到着してみれば、O2は1L/分でも不足しているようだ。いきなりハードモードである。お話を聞くに、うっ血性心不全の急性増悪である。私が研修医時代にはなかった考え方だが、Forester分類の考え方を拡張した「クリニカルシナリオ(以下CS)」という考え方がある(らしい)。この患者さんは血圧が高いので、心拍出量の維持された心不全である。いわゆるCS1と呼ばれる状態と思われる。速やかに外来で必要な検査を行ない、早く病棟に上がってもらおうと考えた。師長さんに

「酸素は2L(/分)に上げてください。胸部レントゲンと心電図を取ったら、病棟に上げてもらってください」

と伝えた。いきなり緊急事態である。CS1の対応は、NPPVという機械(簡易版の人工呼吸器みたいなもの)で人工呼吸を行なうことと、ニトログリセリン製剤で血管を拡張させ、肺うっ血と高血圧を改善させる、というものであるが、残念なことに当院にはNPPVの機械はない。ニトログリセリンの注射用製剤の有無について、急ぎ薬剤科に確認したが、「用時発注」の対応で、院内在庫はないです」とのことだった。診断できても教科書的な治療の術がない、というのも厳しいものである。しかしながらなんとかせざるを得ない。


しばらくして再度師長さんから電話がかかってきた。

「レントゲン室、待ち患者さんが多くてすぐ撮れない、とのことなんですが」

いやいや、この人は命がかかっているのだ。

「すみません。この方、重症なので順番を飛ばして、優先してもらうようレントゲン室と調整お願いできますか?」

「了解です!」とのこと。師長さんにお願いすれば、何とかなるだろう。胸部レントゲンの評価もなしに心不全の診断、治療は難しい。


さすが師長さん、サクッとレントゲンと心電図を済ませ、病棟に患者さんを連れてきてくれた。患者さんを個室に入れ、とにかく口頭で看護師さんに指示を出していく。

「病棟ストックのニトロペンを出して!」

「今、ストック切れでした」

ガクッ!なぜニトロペンが切れているのだ、と思いながら

「では薬剤課からもらってきてください」と伝える。


取ってもらった心電図を見ると、脈拍数の速い心房細動だった。高血圧があり、頻拍で、ということを考えると、ワソランが適切な印象な印象だ。

「点滴路を確保して、生食100ml+ワソラン1Aを30分で点滴してください」

「先生、血管がなさそうなので、ちょっと時間をください」


とバタバタしているうちにニトロペンが手元に届いた。


「いきなりごめんなさいね、バタバタしてしまって。今ゼーゼーしてしんどいでしょ。楽になるようにお薬とか、点滴をしていくのでごめんね。このお薬、ベロの下に入れてそのままにしておいてくださいね」と患者さんに伝え、少し強引に錠剤を舌下に押し込んだ。


一緒に付き添ってきたご家族は個室の外で待機しておられた。


「すみません、バタバタしてしまって。☆▽さん、こちらに来られる途中で、心不全を起こされたみたいなので、今処置をしています。お話しするまで、少しお時間をください。もう少しお待ちください」とご家族に伝え、急いでカルテ記載と、各種指示箋を作成した。


「先生、点滴のルートが確保できて、いまワソラン開始しています」

「ありがとうございます。今、指示箋を書いているので、書き終わったらご家族の方にお話をします」


と看護師さんに伝え、患者さんご家族のもとに向かう。自己紹介を済ませ、現状についてお話をする。


「☆▽さん、年齢のことや心臓弁膜症のこと、体力の低下もあって、こちらの病院に来る途中で、心臓がへばってしまったようです。心臓を楽にするような処置をしています。」と現状を説明。前医からは「リハビリを」ということでこちらに来ていただいたが、現状はリハビリよりも、今の心不全を抑える方が優先であり、経過によっては命にかかわることを伝えた。ご家族の方も、「延命よりも、本人が楽に過ごせることを希望します」とおっしゃられ、そのようにします、また何かありましたらご連絡いたします、と伝えて、一旦ご家族との話を終えた。


話を終えたころには、ご本人も少し楽になられたようで、ご家族の方と顔を合わせてもらうことにした。その合間に、☆▽さんの事前情報と、来院されたときの全身状態のずれ、レントゲンの所見(予想通り、著明な心拡大と、肺野の透過性低下を認めたが、臥位で撮影しており、胸水は判断できなかった)、心電図所見、診断とその根拠、対応とその根拠、ご家族への病状説明の内容などを記載した。


ご家族が帰られた後、患者さんの様子を見に行くと、喘鳴は話すと出現するが、おとなしくしていると喘鳴なく、表情も穏やかになっており、急性期の治療はうまくいったようだった。


予定入院のはずなのに、緊急入院のようなバタバタっぷりだった。いずれにせよ、患者さんが落ち着いてよかった。

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