第219話 感想文(医療ルネサンス「続・コロナ禍の傷痕」を読んで)

読売新聞で連載されている「医療ルネサンス」、今回の「続・コロナ禍の傷痕」7回の連載を読んだ。主題として「コロナ禍で家族を親族を亡くした人を中心に、面会制限で負った心の傷を描く」ということで、非医療者側の視点に立った記事であった。


もちろんそれは主題の通りであり、取り上げられた人たちの想いはよくわかる。しかし、負った心の傷は、コロナ下の面会制限が本当の原因だろうか?というのが、私の疑問である。


近しい人、愛しい人を亡くすと、誰でも心に傷を受ける。いつか癒える傷もあれば、いつまでも癒すことのできない傷もある。COVID-19の流行のはるか以前から、緩和ケアの世界では「家族のグリーフケア」が大きなテーマの一つであった。大切な人を失うと、ほとんどの人が「ああすればよかったのではないか、こうすればよかったのではないか」とある種の後悔を感じる。あるいは後悔なくやり切った、と思える人でも、心に空いた穴は大きい。今回の「医療ルネサンス」で取り上げられていた人も、本文を読んでいればその多くが「コロナ下の面会制限」がなかったとしても、同じように感じていたように思えた。


COVID-19の面会制限下でご主人を失い、ご主人がいつも掛けていた椅子を見てはご主人を思う奥様を取り上げていた回があったが、それは、たとえ面会制限がなかったとしても、やはりよく似た喪失感を感じていたのではなかったのか?と感じた。


私たち医療者は長年その世界に身を置いてしまっているので、今回の連載で、市井の人たちがどのように感じているのか、というのをわかる、という点では私にとって意味のある連載であったと思う。


その一方でこの連載が医療従事者に与えた悪印象、というものも考える必要があると思われる。この連載では、医療従事者は「融通の利かない、機械のようにルールを押し付ける存在」であるかのように描かれていた。登場されたご家族の方がそのような印象を持った、ということについてはしょうがない、と思っているが、医療を提供している側も人間なのである。ただの鉄面皮、のような印象で筆を進められるのは愉快なものではない。


COVID-19が流行後、COVID-19と戦っているのはCOVID-19専門病棟の医師だけ、という印象が非常に強い。一部のクリニックの医師たちは、自身のクリニックで全力で診療にあたっていた。では、その人たちだけがCOVID-19と戦っていたのか?


流行の波を重ねるにつれて、その流行の中での感染者数の山は大きくなっていった。と同時に、医療がパンクし、「医療崩壊」という言葉が広がった。世間では「開業医の2/3はCOVID-19を診療していない。そういったところが診療を行なえば、『医療がパンクする』なんてことにはならない。さっさと2類感染症から5類感染症にすべきである。医師会は開業医の利益のためにそういうことを黙認している」という論調も強かった。もちろん、今もそのような論調は存在している。


しかしよく考えてほしい。COVID-19で最も避けるべきは「密」である。そして、待合室こそ、「密」の最たるものである。なので、動線を管理し、感染者、感染疑いの人、感染が否定された人それぞれをきっちり分けることができないクリニックの待合室は、「COVID-19感染者製造所」となるわけである。


日曜日の午前中にNHKラジオ第一で放送されている「こども電話相談室」。今週の放送を聞いていて、非常に重要な話を聞いた。「鳥インフルエンザ」のことである。子供の質問は、「どうして鳥インフルエンザが見つかると、そこで飼っていた鳥を全部殺してしまうのですか」という質問だった。極めて鋭い質問である。「命は大切だ」と言っている一方で何万羽もの鶏、豚熱であれば豚を殺処分しているわけで、質問した子供は、その矛盾をついてきた。


回答者の先生は正直に、「それぞれの鶏を検査したり、治療薬を飲ませたりする手間やお金と、殺処分、という形で対応するのでは、殺処分の方が手間もお金もかからない。使えるお金には限りがあるので、仕方なく「殺処分」という手段をとっています」と答えておられた。その回答の中で、「水鳥たちが集まっている池で、パンをまいたりすると、鳥が集まってくるでしょ。その時のように鳥たちが集まった状態の時に、鳥同士でインフルエンザを移し合いっこしているんだよ」と言われていた。


動線を分けることのできない待合室は、まさしくCOVID-19の移し合いっこをする場所になるわけである(しかも評判の良いクリニックであればあるほど)。なので、これは言い逃れに聞こえるかもしれないが、動線の分離ができないクリニックでは「COVID-19の可能性のある患者さん」を受け入れない、ということがCOVID-19の流行を拡大させないことにつながっているのである。「受け入れない」ということでCOVID-19の流行と戦っていたわけである。


また、開業医、と言っても内科や小児科だけではないのである。また、内科であっても「内視鏡」を専門とするクリニックなど、「開業医」そのものが専門分化しており、それぞれの診療科で、対象とする患者層が異なるわけである。COVID-19の検査用検体を取ることは難しいことではない。市販のキットで自分で採取することができるくらいなので、医療従事者なら上咽頭からの検体採取もすぐに習得できるはずである。


それなら、眼科クリニックでCOVID-19の検査をすべきだろうか?動線を分けることができない待合室で、「眼」のトラブルを抱えた人に交じって?精神科クリニックでCOVID-19の検査をすべきだろうか?動線を分けることができない待合室で、心を病んだ人に交じって?整形外科で検査をすべきであろうか?動線を分けることができない待合室で、リハビリや関節痛、骨折などで受診している人に交じって?


患者さんやスタッフの安全を守れない状態で、致死的な経過をたどることのある感染症を診察するのは、私は犯罪行為だと思う。対応できる能力がない医療機関が、中途半端に患者さんを受け入れるのが一番危険で、感染を拡大する行為であると考える。


現在のオミクロン株は、当初の武漢株と比べるとずいぶん弱毒化しているが、それでも感染力は麻疹並みに強く(インフルエンザの8倍くらいの感染力、と考えて良い)、重症化率、死亡率もインフルエンザより高い疾患である。現在、COVID-19を5類相当にする議論が行われている。現状では、院内クラスターや施設内クラスター、訪問診療での発症例では自院で治療することが原則となっており、時期的には適切だろうと思う。


ただし、5類相当にして、動線の隔離を不要、ということにして、すべての医療機関(とはいえ、内科、小児科を標榜しているところになるだろうが)で対応、ということになれば、また莫大な患者数になるだろう。簡単な数学の問題で、患者数が増えれば、当然重症例も増えるだろう。重症例はどうしても高次医療機関に治療をゆだねざるを得ない。とすれば、おそらく高次医療機関のベッドが足りなくなって、また「医師会が~」などと騒ぐ人が出るのだろうなぁ、と予想している。


閑話休題。随分脱線してしまった。再度、感想文としてのまとめを記載しておくことにする。「コロナ禍のために、亡くなりゆく家族と会えないままに別れを迎えてしまったご家族を取り上げていたが、文章を読むだに、『コロナ禍で会えなかった』という状況でなかったとしても、やはり同様の後悔や悲しみを抱えていたのではなかっただろうか?」というのが感想である。緩和ケアの世界で行われている「家族のグリーフ・ケア」という土台の上で「コロナのために死に目に会えなかった人たち」を「医療者を少し敵対的に記載すること」をアクセントとして作成された特集だと感じた次第である。

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