第207話 それって本当に「骨抜き」なのか?
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の過酷な寄付の強要という事実を受け、法律が作成されている、という事がニュースで報道されている。「地獄の沙汰も金次第」なんて言葉もあるが、家庭を崩壊させるほどの寄付の強要は明らかに「宗教」のあるべき姿としては間違っていると思われ、むしろ宗教法人を隠れ蓑にした集金集団、であったのかもしれない。それはさておき、その新法成立にあたって、自民党が出したたたき台の案について、公明党が「マインドコントロール下での寄付の禁止」、「可処分所得の1/4以上の寄付の禁止」を外した、とのニュースが出ていた。
ニュースの論調は、「公明党の支持母体である創価学会の意向を汲んで、いわゆる「救済新法」を骨抜きにした」という印象のものが多かった。
しかしながら、「マインドコントロール下での寄付の禁止」、「可処分所得の1/4以上の寄付の禁止」、どちらも極めて微妙な問題をはらんでいると思われる。
簡単なものから考えていくと、「可処分所得の1/4以上の寄付の禁止」、これを徹底すれば、例えば子供や専業主婦など、自らの所得がない人が寄付を行なえば、この法律に違反するわけである。お正月に子供が5円~10円程度のお賽銭をあげるのも違法になる。
先日、義父が亡くなり、葬儀について喪主である妻のサポートとして、一緒に葬儀屋さんのお話を聞いたり、お弔いに来てくださった僧侶の方とのやり取りも見ていたが、やはりここでも問題が起きてくる。実社会において、葬儀の際のご供養は、一応「お布施」という形をとっていても現実問題としては「お弔い料」であり、最低金額が設定されている。ご供養とは別に「お車代」も用意するのだが、これにも金額が設定されていた。もちろん、戒名もランクによって金額が異なり、先に述べた「お弔い料」と「戒名代」を合わせて「お布施」という形をとっている(とっていた)。相続が完了するまでは義父のお金は動かせず、喪主である妻が葬儀代を負担したわけだが、これも、所得のない妻が、何十万というお金を「お布施」という形でお渡ししているわけである(もちろん、妻の預貯金から)。これは新興宗教ではない、鎌倉時代から続く宗派の話であるが、これも違法となってしまう。
旧統一教会、あるいはその他の団体(私は宗教団体にこだわらなくてもよいと思っている。共産党は党員となるためには「党費」として毎年、「年間の実収入の1%」を要求している。そういう点で、政治団体も過度な寄付を求める可能性はありうると思っている)から、過度の寄付を要求され、生活が立ち行かなくなった人たちを救う目的での法律であり、子供が少額のお賽銭を出したり、お金は持っているが可処分所得のない人がお葬式などでお布施を包むことを禁止するものではないはずである。と考えれば、この条文を残すことは法律違反者を多数輩出することになり、適切ではないといえよう。法律だけに、その文言には慎重でならなければならない。
「マインドコントロール下での寄付の禁止」という事はさらに難しくなる。「マインドコントロールとは何か?」という事を考えると、そもそも「自由意志」とは何か、「真に束縛のない状態での『自由意志』とは存在するのか」という哲学的問題となってくる。
Wikipediaからの引用では「マインドコントロール」とは、操作者からの影響や強制を気づかれないうちに、他者の精神過程や行動、精神状態を操作して、操作者の都合に合わせた特定の意思決定・行動へと誘導すること・技術・概念である」とされている。
そして、人間は社会的特性を持つ生物であるために、生まれた時から常に、その社会で「常識」とされているものを刷り込まれているわけである。
例えばワールドカップで、自分たちのロッカールームや座席の周りを片付けて帰る日本人、これは公教育の中で、自分たちが自分たちの学び舎を掃除する、という習慣に起因していると思っている。他国では、小学校であっても「掃除人」を雇っており、汚れた教室は「掃除人」が掃除することが当然、と思っているわけである。どちらが良い、悪い、というわけではなく、自分の周囲の環境によって、自分の思考は意識するとしないとにかかわらず、特定の向きへと方向づけられているわけである。そういう視点で見れば、私自身は、「日本人」としての思考の方向性へ「マインドコントロール」されている、とも言える。
一部の弁護士など、旧統一教会からの脱会を助ける運動をしている人からは「消費者被害救済の観点から、目的、方法、程度、結果などを見て、それらが法規範や社会規範から大きく逸脱している場合は、これをマインド・コントロールと判断して問題視すべきである」と「マインドコントロール」を定義づけており、これは私たちがイメージしている「マインドコントロール」に近い定義であるように感じられる。
ただ、時には法規範、社会規範が異常で、少数者が正しい、という事もありうるわけである。例えば太平洋戦争中の大日本帝国。憲法では「信教の自由」をうたってはいたものの、国家神道を事実上国教化し、既存の各宗教団体に、伊勢神宮の大麻(神札)を祀り、礼拝するように強く指示した。多くの宗教団体はそれを受け入れ、この戦争を「聖戦」として賛美していた。
半年ほど前の新聞記事だったと記憶しているが、浄土宗/浄土真宗系の僧侶たちが、第二次世界大戦中の宗門の行ないを振り返る集いを開いた、という記事を読んだ記憶がある。「自宗でも戦争を賛美し、戦争への協力を惜しまなかったが、終戦後に戦時中の自分たちの振る舞いを反省する機会のないままに時が過ぎてしまった。今、振り返ろうとしても当時を知る人たちのほとんどが鬼籍に入ってしまい、宗門の中のリアルな雰囲気を語れる人がいないことが残念である」と答えていたことを覚えている。
特高警察が思想の取り締まりに活躍し、国の動きに反対する立場の集団をことごとく検挙、拷問を加え、死者が出てもお構いなしに思想統制を図ったことは知られていることである。もちろんこの中には当然「神札」を受けなかった宗教者たちも含まれている。そのような状況であるなら、社会通念が異常、信仰に殉じる人が正常、という事である。という事を考えると、法的な定義なく「マインドコントロール」という言葉を法律に入れるのもやはり危険で短絡的であると私は考える。
救済新法の成立を急ぐ、という事であればあるほど、議論の余地がある、あるいは解釈に幅を持たせた法律は不適当だと思われる。
という事で、与党で合意された法案、決して悪くないと思うのだがいかがなものだろうか?
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