第198話 「一言」に心揺さぶられる。

結構前の話。新聞の「書評」で読んだことである。


作家の井上 靖氏は敬虔なクリスチャンであった。氏は聖書をはじめ様々な文献を当たり、彼自身のキリスト像を作り上げたそうだ(空想、という意味ではなく、調べた文献の数々をもとにして、という意味で)。氏の抱いていたイエス・キリストは「石をパンに変えることもできず、水をぶどう酒に変えることもできなかったが、常に最後まで、困っている人、苦しんでいる人のそばにいた」人であった、とのことだった。


仏教徒である私は、氏の言葉に非常に驚いた。というのも、氏の語ったキリストは、まさしく仏教でいうところの「菩薩」の振る舞いそのものだったからである。


「六道輪廻」と言われ、生きとし生けるものはこの六道を行ったり来たりしている、と説かれている。この六道は、その中でも「三悪道」と呼ばれる、地獄、餓鬼、畜生の世界、「四悪趣」と言って、三悪道に追加される修羅、そして人界、天界を合わせて六道とされている。仏教ではそれぞれの世界がある、というように説かれているが、後の大師たちが、「それぞれの世界があるわけではなく、常に私たちはその6つの状態を行きつ戻りつしている」と釈している。苦しみの世界である地獄、確かにひどい苦しみの時には地の底に落ち込んでいくような気分がする。なるほど、地獄は地面の下にあると説かれるわけである。餓鬼界は欲望におぼれた世界。畜生界は「強きにおもねり、弱きを脅す」状態である。修羅は怒りの状態であるが、怒りには「悪の怒り」と「正義の怒り」があるわけで、そういう点で三悪道とは異なるとされている。人界は穏やかな私たちの状態。天界は「天にも上るうれしさ」ということで、喜びの世界である。私たちの普段の生活ではこの6つの状態を行ったり来たりしている、ということである。考えてみると確かにそうだよなぁ、と実感する。


原始仏教では悟りを開いたことを「六道を離れ、輪廻から逃れた」と表現しているが、この六道の外にあるのが、上座部仏教で「阿羅漢」という悟りの境地にたどり着いた人の「声聞」「縁覚」という世界で、「声聞」は文字の通り、仏の声(教え)を聞いて「その通り」と信を強くする状態、「縁覚」は「縁」によって「覚る」状態を表しているとのこと。大乗仏教で説かれる「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさった)」の略で、利他の心をもって仏道修行に励む状態を表すとのこと。ただ、「仏」の状態は言葉で表現することも難しく、人知の至る所ではない(ただ仏と仏のみがその内容を知り尽くしている、と経典に書かれている)とされている。しかしながら、「仏」の振る舞いは「菩薩」の振る舞いとして現れ、また、仏になる修行は「菩薩」としての修業、と経典に書かれている(釈尊が成仏した原因として「我本行菩薩道」と書いてある)。


そんなわけで、「仏」はその振る舞いとして「菩薩」としての振る舞いを表す、ということと、井上 靖氏の「弱きものに誰よりも寄り添う」イエスキリストの姿がまさしく「菩薩」の姿であることに深い意味があるように思えてしまった。


宗教の成り立ちとしては全く異なるキリスト教と仏教が、その実際の姿として共通のものを持っている、ということは非常に興味深いことだなぁ、と感動した次第である。

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