第172話 「想定外」ではないと思うのだが?

ネットニュースの引用ばかりで申し訳ない。


2021年、市立病院で80代男性の方が大腸内視鏡検査を受けたとのこと。手技の際に(記事では「内視鏡を引き抜いた際に」とある)大腸に穴が開き、翌日多臓器不全で死亡したとのこと。


市が事故調査委員会を設け、経緯を検証し、「病院として改善が必要と考えられる点がある」との報告を受け、遺族に謝罪。賠償金1800万円を支払った、とのことである。


内視鏡検査の中でも大腸の内視鏡検査(下部消化管内視鏡検査)は、あまり高齢者には行ないたくない検査の一つである。今回、大腸に穴が開いた(「穿孔」という)とのことだが、胃カメラ(上部消化管内視鏡)での穿孔のリスクは2000年の日本内視鏡学会の調査で約2万件に1例の頻度、とされている一方で、下部消化管内視鏡の穿孔リスクは約2000件に1例、と上部消化管内視鏡の10倍のリスクがある。それだけでなく、上部消化管内視鏡で観察できる範囲では、胃と十二指腸球部(十二指腸の入り口あたり)は可動性のある臓器なのだがその他の部位は基本的に固定されているので、のどの「ごっくん」のところが一番穿孔のリスクが高く、穿孔の際は非常に厄介だが、そこを過ぎると、あまり挿入、観察に苦労することはない(もちろん手術を受けていれば別だが)。その一方で、大腸は下の方からS状結腸、横行結腸、盲腸部が固定されておらず、また、高齢の方では癒着を起こしていることもあり、挿入そのものに困難を伴ったり、癒着のため痛みがひどい、あるいはどうしてもカメラが進まない、という事で、大腸全体を観察できないことがある。


最初に「内視鏡を引き抜いた際に」と括弧をつけて記載したが、下部消化管内視鏡は、盲腸部までファイバースコープを挿入して、そこから検査が始まり、内視鏡を引き抜きながら、観察を進めていく。ところが、まず盲腸部までファイバースコープを進めるのが難しく、穿孔のトラブルも、大腸の折れ曲がったところにファイバーを進めるため、ファイバーにひねりを加えたりしたときに起きることが多い。私が後期研修医であった4年間に2例、大腸穿孔の事故があったが、事故を起こした先生は数年来下部消化管内視鏡を毎日行なっていた中堅の先生と、後期研修でも熱心にカメラのトレーニングを受けていた先輩であり、手技の未熟者ではなく、ある程度の熟練者でも起きるときには起きるのである。そういう点で交通事故に似ているようにも個人的には思っている。そんなわけで、内視鏡挿入の時に穿孔し、引き抜きの時に穿孔は発見されるのである。「引き抜いた際に穿孔」したというのなら、よほど変な抜き方をしたのだろうか。


私が研修医の時は、早期胃がんや早期大腸がんの内視鏡手術は技術の開発段階であり、穿孔が見つかった時点で外科にお願いし、開腹手術、となっていたが、現在では、内視鏡手術の進歩により、穿孔した場合も程度によれば内視鏡的に閉鎖術を行ない、入院、抗生剤投与で慎重に経過を見ていく、という事が多いと聞いたことがある。少なくとも「あっ!破れている!」というのは内視鏡的に術者が発見することがほとんどで、穿孔していれば即座に対応することも変わっていないと思われる(それを放置することはあり得ない)。


高齢者に下部消化管内視鏡を行なうときには、内視鏡操作のことだけでなく、その前段階から注意が必要となる。準備:preparationから、プレップと略して呼ぶことが多いが、下部消化管内視鏡を行なう際には、前日の夜からプレップが始まる。夕食後にしっかり下剤を飲んで、下剤で出せるだけの便を出しておく。そして病院によって異なるが、私の研修病院では朝から患者さんに来てもらって、洗腸液を約2L飲んでもらうことになっていた。病院によっては洗腸液も自宅で飲んでもらうところも多い。洗腸液を飲んでいくと、何度も何度も洗腸液とともに残っていた便が出てくる。そして、2Lを飲み切るころには、便はほとんど洗腸液となり、色も薄い黄色になる。そこまで行えば、大腸の中に、観察の邪魔になる大便はほとんど残っていない、という状態になり、それから検査を開始する、という流れなのだが、高齢者では、下剤を飲んでもらったら、便の方ではなく、上の方に戻ってきて嘔吐をしたり、洗腸液を飲むときに誤嚥したり、飲んだ洗腸液を嘔吐してその際に誤嚥する、というトラブルがしばしば起きる。


私が消化器内科をローテート中、下血が止まらない90代の女性を担当したことがあった。他の検査ではどうしても原因が同定できず(おそらく悪性腫瘍だと思っていたが)、2週間下血が続き、輸血をしてもどんどん貧血になっていく状態であった。カンファレンスで「リスクはあるが一度CF(下部消化管内視鏡)をしよう」という事になり、前日の下剤などの指示を書いて帰宅した。検査当日、電子カルテを開けると、その患者さんはICUに転室となっていた。話を聞くと、下剤を飲んでから、腹痛がひどく、とうとう嘔吐をしてしまい、誤嚥窒息となりnear CPA(心肺停止直前)となったそうだ。当直医、病棟スタッフが適切に対応してくださり、気道確保でき、意識も清明となったが、化学性肺炎(胃酸による肺炎)の可能性が高いとのことで、酸素投与状態でICUに転室したとのことであった。結局その患者さんにはCFをすることはなく、そのまま衰弱して亡くなられたように記憶している(腎機能がひどく悪かったので、IVRは厳しかった、という事もある)。


そんなわけで、高齢者に下部消化管内視鏡を行なうときには、そのリスクを十分に説明し、検査の必要性がリスクを上回ることを理解してもらったうえで検査の依頼をしている。もちろん、私の経験した、プレップの段階で命を落としかけた患者さんもいる、という事も話している。穿孔した場合には命にかかわることも十分ありうる、と説明している。


なので、この経緯にはわからないことが多い。「場合によっては命を落とすこともある検査です」と、特に高齢者には伝えたうえで検査の同意を得ているはずである。少なくとも私はそうしている。


大腸穿孔は予想外のアクシデントではなく、常に起こりうる可能性のあるものなので、そのことも理解を得たうえで検査しているであろう。内視鏡医は大腸穿孔に気づかなかったのだろうか?ある程度熟練しないとCFはできない(盲腸、あるいは回腸末端までファイバーの先端を持っていけない)ので、わかると思うのだが。穿孔を起こした翌日に多臓器不全で亡くなる、というのも経過が早すぎるような気がする。穿孔に気づかず、放置されたままだったのだろうか?そして、予測可能な偶発症が起きた、という事に対して賠償金の額がずいぶん大きいと思うのだが?


いずれにせよ、高齢者への下部消化管内視鏡はやはりリスクが高いなぁ、と改めて思う次第である。

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