第103話 「誤解を招きやすい名前」で損をしているもの

台風14号の日本上陸で、現時点(9/19午前)で、ずいぶん九州に大きなダメージが出ているようである。宮崎県に線状降水帯が出現し、豪雨が降ったことで、隣接する球磨川水系にも多量の雨水が流入しており、いくつかのダムで「緊急放流」を行なった、とのこと。起床後、スマホのニュースを見ているとこの「緊急放流」のことについて、的外れの非難が轟轟であった。「緊急放流」という言葉が、この行動の正確さを持っていないため、物事をしっかり理解していない人たちの、誤解を含んだ意見が球磨川の水以上に氾濫するのだろう。


医療の世界でも非常に誤解が多いのが悪性腫瘍、いわゆる「がん」における「標準治療」という言葉だと思う。この言葉(英語でも”Standard therapy”となっているのでしょうがないのだが)を聞くと、「標準」ではないさらに「特別」で「効果の高い」治療があるように思ってしまうだろう(少なくとも、医療人である私にとっても、そう感じてしまうくらいである)。

ただ、前提として考えてほしいのは、「医師」は常に患者さんに「最善の治療を施したい」と考えているわけである。「効果があって、副作用が少なく、患者さんの負担が少なくてすむ治療」があれば、医師であれば「普通は」その治療を選択するわけである。

ということで、多くのがん治療医が「標準的に選択」するのは、その時点で、効果と副作用を勘案して、患者さんに最も不利益が少ない治療、つまりその時点で「最良」と考えられている治療である。ということで、「標準治療」が、その時点で「最良」と考えられている治療を意味しているのであるが、「標準」という言葉の響きで、非常に損をしていると思っている。「最良治療」とでも訳せばよいのだろうが、もとになる英語が“Standard therapy”なのでしょうがない。


「緊急放流」も同様である。正しくは「異常洪水時防災操作」という名称である。本来のダムでは、降雨の時は河川の流量を調整するために、そのダムの計画最大放水量を超える水量がダムに流入してきたときは、ダム流入量>ダム放流量として余分な水をダムに貯めている。しかし、台風や集中豪雨で流入量が極端に多くなってダムの最大貯水量に近づき、とうとうダムにこれ以上水をためられないときに、ダム流入量とダム放流量を等しくして、ダムの破壊を防ぎます、というのが「緊急放流」と呼ばれる操作である。しかも、計画最大放流量からダム流入量への放流量の増加は緩徐に行い、一気に増水させるわけではない。なので、「緊急放流」と名前がついていても、急激に増水するわけでもなく、ダムにたまった水を排出する、ということは全くなく、実際問題は、「ダムがない状態の川の流れになる」ということである。


ダムによる治水は、洪水の被害をゼロにすることを目標としているわけではなく、その被害を最小限にする、ということが目標である。もちろん、台風など豪雨が予想される場合は、規定によって「事前放流」という形で、普段のダム貯水量よりも貯水量を減らして準備をしている。もちろん、ダムの多くは治水だけでなく、水源、発電、農業用水にも利用されているので、空っぽにはできない。なので、細かな規定があり、その規定の分量だけ事前に減らして、洪水に対してしっかり準備をしているわけである。そして、多雨でダムが満水に近くなる、あるいは満水が予想される際、許可を得ていわゆる「緊急放流」を行なう場合には、3時間前、1時間前に事前のアナウンスを行なうことになっている。「緊急放流」が「ダムが存在しない状態」を意味しているわけなので、ダムがあることで、少なくとも避難するための時間を3時間稼いでくれているわけである。この「3時間」に意味があるわけである。ダムがなければ、もっと前倒しで、何のアナウンスもなく洪水が起きるということになる。


「緊急放流」と言われているが、一気に流量を増やすわけではなく、ダムの水を放流するわけではない。上流から流れ込んだ水をそのままスルーして流します、という意味であるのだが、その記事に対して、コメント欄にはダムに対する非難が轟轟だったことには驚いた。この「緊急放流」も、言葉の響きが悪いよなぁ、誤解を招くような表現だよなぁ、と思った次第である。

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