第100話 「東京23区」でなかったら…?

本日の夕刊の記事。見出しが「メタノール飲ませ妻殺害」とデカデカと載っている。裁判が結審するまで、推定無罪であるべきなのに、この見出しは良くないよなぁ、と思いながら記事を読む。容疑者は製薬会社の研究者の男性とのこと。某日の朝に、「前日の朝から具合の悪かった妻の様子がおかしい」と救急要請。救急隊が駆け付けたところ心肺停止状態であり、搬送先の病院で死亡が確認されたとのこと。当初は病死の可能性が高いと推定されていたが、「行政解剖」を行なったところ、血液や尿から「メタノール」が検出されたとのこと。死因は「急性メタノール中毒」と明らかになった。「メタノール」は「メチルアルコール」とも呼ばれるアルコールの一つである。私たちが飲んでいるお酒に入っているアルコールはメタノールより炭素の一つ多い「エタノール(エチルアルコール)」であるが、エタノールと異なり、体内で代謝されると、ホルムアルデヒド(ホルマリン)、ギ酸と毒性代謝物が産生されるので、エタノールよりはるかに毒性が高い。戦後の闇市で売られていた密造酒や、通称「バクダン」と呼ばれていたお酒には、エタノールではなくメタノールが入っていることがしばしばであり、メタノール中毒で失明したり、命を落とす人が続出したそうである。失明する人も多かったので「目散る(メチル)アルコール」などと揶揄されたりしていたらしい。


消毒用のアルコールは80%エタノール、あるいは50%イソプロピルアルコール(これも有毒)が用いられており、日常生活の中にメタノールが入り込むことはまずない。ということでこれは殺人事件だ、ということで捜査が始まった。研究室では容易にメタノールは入手できることや状況証拠から夫が容疑者として逮捕、となったとのことである。もちろんその前に、「前日の朝から調子が悪そうな妻を翌朝まで放置していた」とのことで、保護責任者遺棄の容疑で捜査されていたとのことだが。


さて、この記事で出てくる「行政解剖」という言葉。馴染みのない人が多いと思う。


「解剖」には法的にいくつかの種類に分けられる。献体されたご遺体を、医学生が解剖学の学習のために解剖実習で行なわれる解剖は「正常解剖」と呼ばれる。これはもちろんご本人の希望で献体されているため、ご本人の承諾のもとに行われる解剖である。

命を落とした病気の原因や、病気の広がりを調べるために、病理医が主に行なう解剖は「病理解剖」と呼ばれる。これはご遺族の同意を基に行われる解剖である。

「司法解剖」は、犯罪性のあるご遺体に対して、警察、検察が「刑事訴訟法」に基づき裁判所に依頼をし、裁判所の許可を得て行う解剖であり、司法解剖はご遺族やご本人の同意を必要としない。

そして「行政解剖」であるが、これは地域によって異なっており、記事に書いていた通り、今回はこの「行政解剖」がカギとなって他殺であることが明らかとなった。


「行政解剖」は犯罪性のないと思われるご遺体に対して行われるのだが、「監察医」と呼ばれる法医学の医師が置かれている地域では、原則として「病死」以外(不審死、と呼ばれる)の死者は解剖され、死因を確認されている。「監察医」の置かれていない地域では、不審死については「警察医(地域の医療機関に委託されている)」が死体を検案(確認)し、必要があればご遺族の同意を得て行われる、となっている。


ただ、この「監察医制度」を有する都市はごくわずかで、現在は、東京23区、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市のみである。


今回の事件は東京23区で起きたので、不審死は監察医のもとに運ばれ、「行政解剖」を行なうことができた。これが監察医の置かれていない地域で起きたことであれば、おそらく行政解剖は行なわれていないと思われ、事件は発覚しなかったと思われる。


犯罪捜査の点で、以前から「監察医制度」の不備は常に指摘されていて、私が医学生の時もその問題点は法医学の授業で取り上げられていた。「監察医制度」が不備となってしまうのは、「監察医」の仕事を担う法医学者(医師)が圧倒的に少ないことである。医学部、医学生の間でも「もし教授になりたいのなら、法医学に進むのが一番早い」と言われるほどの人材不足である。日本のほとんどの地域では、司法解剖をこなすだけで目一杯となっている状態である。法医学も、学問としては非常に興味深い分野であるが、仕事柄、腐乱死体や焼死体などの司法解剖も行なう必要があるため(しかも司法解剖は非常に厳格に所見を拾い上げなければならない)、大変なのである。


そんなわけで、この事件は監察医制度を有する東京23区で起きたからこそ明らかになったわけで、他の地域であればもしかしたら「完全犯罪」となっていたかもしれないし、同様の見逃しが全国各地で起きている可能性は高いのである。非常に難しい問題である。

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