第30話 安部 晋三、ジョン・レノン

事件発生後、色々と情報が明らかになり、安部 晋三氏は、左右の鎖骨下動脈を損傷したのが一番のダメージだったようである。右鎖骨下動脈は大動脈から腕頭動脈が分岐し、腕頭動脈から右内頚動脈を分岐した後の部分であり、左鎖骨下動脈は大動脈から直接分岐している。弾頭は大動脈も、心臓も傷つけているが、左右とも鎖骨下動脈はほぼ断裂した状態だったとのこと。それは止血も困難であり、救命もほぼ不可能だったことだろう。奈良医大のチームは大血管、心臓の修復を行なった、と会見で語っており、技術的に難しいことをやり遂げたのは確かだと思う。


血液は不思議で、二面性を持つ必要がある。というのは、「血管内では決して固まってはならない」という事と、「血管外に出れば速やかに固まらなければならない」という相反する性質を持つ必要があるからである。それを実現するために、血液には「凝固系」と呼ばれる血液を固める働きにかかわる複数のたんぱくと、「線溶系」と呼ばれる凝固した血液を溶かす働きにかかわる複数のたんぱく質が存在し、おそらくミクロのレベルでうまくバランスをとっているのだろうと思われる。これらのたんぱく質の中には人工的に合成され、治療薬として使われているものも多い。このバランスが崩れると、DIC(播種性血管内凝固)と呼ばれる状態となり、固まってほしくない微小血管内で血栓を作り、それと同時に、毛細血管から出血も起こすような困った事態となる。


安部 晋三氏に行われた輸血は100単位以上、と言われている。一般的に輸血、と言えば赤血球輸血をイメージする人が多く、実際にも赤血球輸血が最も頻度が高いと思われる。人の血液を試験管に入れて放置しておくと、赤血球などの細胞分画と、血液内のたんぱく質を含む血漿分画に分かれるが、教科書では、「10単位以上の赤血球輸血が必要な場合は、必ず血漿成分の輸血も必要となる」と書かれている。というのは、先ほど述べた「凝固系」「線溶系」のたんぱく質が失われ、血液に必要な、「固まるべき時に固まり、固まってはいけない場所では固まらない」という性質が失われてしまうからである。血漿製剤は冷凍の状態で保存されており、「新鮮凍結血漿(FFP)」と呼ばれている。多量の輸血が予想される予定手術では赤血球輸血だけでなく、必ずFFPも用意されている。


おそらく、安部 晋三氏は赤血球も、血を固める作用のある血小板も、そしてFFPも大量に輸血されたのだろう。成人の体内の血液量は約5~7Lと言われており、100単位の輸血ならば、身体全体の血液を4回入れ替えるような血液量である。いくらバランスを考えてFFPを輸血したとしても、正常な凝固系と線溶系のバランスを維持することはできなかったのだろう。会見では、手術で修復したところからも出血が止まらなかった、との発言があった。縫合処置をしても、ミクロのレベルでくっつけることは不可能であり、そのミクロの穴をふさぐのが血小板であり、凝固系の仕事である。おそらくその機能が破綻してしまったのだろう。しょうがないことである。


1980年に自宅アパートの前でジョン・レノンも銃弾に倒れた。彼も肩の部分を打たれ、左右どちらかはわからないが、鎖骨下動脈損傷による失血死だったと記憶している。奈良医大のスタッフが感じたであろう無力感を、おそらくジョン・レノンの搬送された病院の医師たちも感じたことだろうと思う。


ジョン・レノンは伝説となった。安部 晋三氏もおそらく歴史の教科書に名を残すことになるだろう。麻生 太郎氏の弔辞で、「私の弔辞をあなたに読んでほしかった」という言葉を聞くと、何ともやりきれない思いである。

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