第41話 老兵

「ねえねえ、おじいちゃん」


 気持ちの良い青空が広がる午後。暖かな日差しは一軒家の大きな窓に入り、リビングを照らす。平穏な家庭そのものの和やかな空気が流れていた。

 そこに響いたのは小学校高学年くらいの子供の元気な声。読書をしていた祖父に話しかければ、彼は優しげな声で応じてくれる。


「んん? なんだい結太ゆうた?」

「おじいちゃんが子供のころって、エンカウントがなかったって本当?」


 平和な時間からかけ離れた、思わぬ問いかけ。一瞬呆気に取られた祖父だったが、静かに本を閉じるとにこやかに答える。


「ああ、本当だよ。エンカウントが起こるようになったのは、おじいちゃんが高校生ぐらいの頃だったなあ。それまでは魔物も魔界もお話の中だけで、実際にはないと思っていたんだよ」


 祖父は落ち着いた声音でしみじみと語る。

 その晴れやかな顔は純粋に過去へと思いを馳せているよう。孫に配慮して余計な感情を隠した演技ではなく、彼本来の反応だと感じられた。




 あの日から――世界の変貌から数十年が経っていた。異変とそれに伴う騒動は最早近代史の領域である。

 つまり、エンカウントのない時代は過去の話。

 異常は平常となって世界を巡り、人の営みは尚も続く。様々な原因で命は去り、また新たな命が生まれた。こうして以前の世界を話でしか知らない、生まれた時からエンカウントと共にあった世代が圧倒的多数となっていたのだ。


 その一人である結太は、子供らしい純朴な笑顔で知らない時代の話を尋ねてくる。


「エンカウントがなかったころって、どんなだったの? 学校で習ったけどよくわからないんだ。だから教えて!」

「うーん、そうだなあ。昔は戦いなんてしなくてもよくて、それは楽だったな。いいところで邪魔されたりもしなくて……ああ、でも……うん。実は、そんなに今と変わってないんじゃないかな」

「え? 変わってないの? なんで?」


 困惑顔で首を傾げ、キョトンとする結太。明らかな矛盾を含んだ回答に、疑問符を浮かべて戸惑っている。

 そんな孫の様子を微笑ましく思いながら、祖父はゆっくりと頷いた。


「うん。そりゃあエンカウントが始まった頃は、皆どうしていいか解らなかったよ。でも落ち着いて慣れた今と始まる前なら、ほとんど同じ生活なんじゃないかな。戦うのは大変だし危ないけど、病気とか交通事故とか、危ない事は元々たくさんあったからね。だからそれよりもエンカウントと関係ないところ……機械の進歩とかの方がよっぽど凄いと思うよ」


 幼い孫にも理解できるよう、祖父は優しく丁寧に長い持論を話し終えた。

 静まったリビングを「う~ん」という可愛らしい唸りだけが賑やかにする。小さな腕を組んで考える結太だ。

 ただ、難しかったかな、と祖父に問われれば途端に少年は不満そうに頬を膨らませた。


「やっぱりおかしいよ。おじいちゃんの言い方だとぜんぜん辛くなかったみたい。それじゃあさ、『昔の人は急に危険な世界に変わったせいで大変だった』って先生が言ってたのがウソになっちゃうよ」

「いいや、それは嘘じゃない。勿論おじいちゃんにもたくさん嫌なことはあったし、辛い事もあったよ。でも、それだけじゃないんだ。ちゃんと良い事もあったんだよ」

「え? いいことって?」

「人の強さを知った。命の重さを知った。それに……おばあちゃんとも仲良くなれたのも、エンカウントがきっかけだったんだ」


 体験談を語る祖父にやはり影は見られない。嫌な事、辛い事に対する憤怒や憎悪が微塵も。悲哀すらその糧にしたように笑っていた。

 何処までも朗らかな笑顔を見て思うところがあったのか、結太は子供らしくない真剣な態度で尋ねる。


「おじいちゃんはエンカウントがなくなってほしくないの? がんばってる人がいるのに」


 結太が指す「がんばってる人」とは、近年世間に話が広まった魔王討伐を目標とするグループの事だ。彼らは既に魔王の拠点を発見し、今は仲間を集めているらしい。

 とはいえ客観的にみれば信憑性に欠ける話だ。噂や都市伝説、詐欺師扱いする人間も多い。

 だが信じる人々にとっては大きな希望となっている。その影響力は計り知れない。


 じっと答えを待つ結太の前で――祖父は迷い無く首を横に振った。


「確かにエンカウントには思い出もある。……でも危険だからね。やっぱり、無い方がいいと思うよ。おじいちゃんの我が儘で、これからの人達を邪魔したくはないな」

「いいの? いいこともあったのに?」


 ズイと身を乗り出して確認してくる結太。その様子はなにやら心配しているようであった。

 だが祖父は、それは杞憂だと諭すように、真っ直ぐ真剣な雰囲気で向き合う。


「いいかい、結太。変わる、っていうのは当たり前の事なんだ。誰かの一言とか小さな行動でも、世界は簡単に変わる。さっきは今と昔はほとんど同じって言ったけど、それは皆が世界を変え直したからなんだ。だから、どんな変化も受け入れなくちゃいけないんだよ」


 世界を変え直した事例――それは例えば、魔物についての情報の共有。法改正の署名運動。助け合う意識の向上。

 小さなものから大きなものまで。エンカウントの危険度が下がったのは、大勢の勇者達による努力の成果だ。異変に立ち向かう人間の強さが、変えられた世界を再び変えていったのだ。

 それがまた行われようとしている。受け入れこそすれ、拒む事などあり得ない。混乱の時代を生き抜いてきた者として。

 それが、祖父の意見だった。


 だが、それだけで割りきれないのもまた、人間なのだ。


「ただ……いざ無くなった時は、少し寂しく思うかもしれないね」


 間を空けてそう付け加えた祖父の顔は切なげでもあり自嘲するようでもあり、実に複雑な表情だった。彼自身にも把握出来ていない、難しい感情の動きがあるようだ。

 そんな祖父を孫は黙って見ている。結太も幼いながら、先人の意思を懸命に理解しようとしているらしかった。


 そんな二人を、突然の浮遊感が包んだ。






 奇妙ではあるが慣れ親しんでしまったその感覚は、戦闘の開始を意味していた。

 平和なリビングから一変した、不気味な暗色ばかりで荒れ果てたその場所は魔界である。

 前方には宙に浮かび触手をウネウネと揺らめかせる、クラゲのような魔物。

 普段となんら変わらないエンカウントだった。


「さ、結太。後ろにいなさい。おじいちゃんが前に出るからね」

「えー。ぼくも戦えるよ!」


 気持ちの切り替えは基本中の基本。

 祖父が指示すれば、すかさず抗議が飛ぶ。子供にありがちな無鉄砲さを結太も当然のように持っていたのだ。

 ただし彼の不満はすぐに霧散する。頭にポン、と優しく手が置かれたからだ。

 そして柔らかい、懐かしいものを見るような笑顔が口を開く。


「うん。それは知ってるよ」


 肯定の言葉は本心から。

 一方的に守る助ける、なんて傲慢だとかつて学んでいたが故の自然な返事だった。


「だから、結太には後ろにいて、おじいちゃんが危なくなった時に助けて欲しいんだ。任せられるかな?」

「そっか、わかった! じゃあがんばるね、おじいちゃん!」


 機嫌を良くして張り切る孫を見ると、祖父は前を向いた。

 柔らかい笑顔を消して戦闘態勢に入り、そしてすっかり手に馴染んだ長剣を構えて走り出す。それにたどたどしい動きでついていく結太。


 対照的な二人は戦いを始めた。

 触手がうねり、剣閃が走る。金属音に風切り音、魔物の奇声と子供の歓声で途端に騒々しくなった。

 先駆者はその背中で教え導くように黙々と。後継者は拙い見様見真似でも一生懸命に。

 これは戦いであると同時に戦士の教育の一環であり、また家族の繋りを育む手段の一つであった。






 この日もありとあらゆる場所で、人々はそれぞれに戦いへと身を投じる。エンカウント以外にも、それぞれ様々な戦いへ。

 その中で様々な変化をし、また他人を変化させながら――変わらずに回る世界を生きていくのだ。

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その他大勢の勇者たち 右中桂示 @miginaka

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