第9話 斯くして挑むは愚者の森
「――
身を
腐りかけの木製テーブルにイスカ帝国の地図を広げたリタが言った。
その内容に、エイトールは眉根を寄せる。
「おいおい、俺もそんなにイスカの地理に詳しいわけじゃねぇが……そいつが無謀だってことはわかるぞ?」
仲良く帝国地図を覗き込みながら、エイトールは苦言を漏らした。
特異なる環境を有し、凶悪な魔法生物が多く棲みつく弱肉強食の緑の世界。
支配主義を掲げる帝国が、己の領地にありながら未だに開拓を進められていない危険な領域。
その名づけの由来である。
「エイトールがそう思うなら、オフェーリア派の者たちもそう思っているはずです」
「む……」
その判断に、エイトールは押し黙る。
リタを無事に帝都へと送り届ける。
そのための最大の障害は、オフェーリア派の刺客たちであろう。
護衛騎士にまでその手が回っていたと考えれば、いくら皇女といえど近くの街に行って騎士団の力を借りるのは怖い。
全ての騎士がオフェーリア派でないとしても、どこに敵がいるのかわからないのだ。
「騎士の十人や二十人なら俺が吹き飛ばしてやるんだけどな」
「私を守りながら……となるとエイトールも無事ではすまないでしょう。あ、いえ、エイトールの強さを疑っているわけではありませんよ。ただ――」
「わかってる。俺は戦いの専門家じゃねぇからな。多くの敵に狙われた状態で誰かを守りながら戦うなんてことはしたことない」
ただ――したことはないが、想像することはできる。
敵の集団に囲まれたとして、武器や魔法が使えないエイトールは近接でしか戦えない。
一方面に意識を向ければ違う方向からの攻撃に対処できない。
魔法や狙撃で遠くから狙われれば、確かにリタを守りきれないかもしれない。
「……そうだな。できるだけ敵との戦いは避けた方がいいかもしれないな」
「だからこその
再びエイトールは帝国地図に目を向ける。
イスカの西領域を支配する大森林。
そこを抜けることができれば確かに帝都への近道になる。
森を迂回するルートを取るよりは、時間的にも効率が良いだろう。
「……」
エイトールはリタをじっと見つめた。
リタは自分よりもずっと賢い。
迂回するルート、
それぞれの持つ危険は既に何度も
その結論がこれならば、エイトールは従うだけだ。
「……? なんですか、エイトール? そんなに私を見つめて」
「あ、いや、可愛い顔だなって思ってただけだ」
「かわっ!? な、何を言ってるのですか、エイトール!」
ぺしぺし、とリタはエイトールの肩を叩く。
顔が真っ赤だ。
いや本当に可愛いなおい――と、エイトールは軽く笑う。
「わかった。
「……ごめんなさい、エイトール。この無謀な提案が、お前の強さに頼っているだけなのはわかっています。でも私は絶対に帝都に行かなければいけません」
「わかってるって。だからそこはごめんなさいじゃなくて、もっと別の言葉が欲しいな」
「……そうですね。ありがとう、エイトール」
そう言って、リタは
その笑顔にはいろいろなものが含まれている気がした。
当然だ。
リタの環境はこの一日でまるっと変わった。
母親の死、突然の帝位継承の指名、
無邪気な笑顔を浮かべるには、彼女の今の
でも――。
(……いつか何も考えずに笑える時が来るといいな)
エイトールはそう思う。
そんな未来が来るように全力を尽くすことを誓う。
友達は裏切るな。
父が教えてくれたその言葉を、今一度、心の中に思い浮かべて。
***
彼らが身を潜めていた林がそもそも
「お、おい、リタ。そんなにくっつくと歩きづらいって」
「うぅう、ごめんなさい。でもぉ……」
普段の気丈なリタからは想像できないか細い泣き声。
彼女は今、エイトールの腕を取り、ぴったりとその身を少年へと寄せていた。
なぜか?
理由は単純――。
「こ、こんなに虫がいるだなんて思ってませんでしたぁ」
「……まあ、確かにこの量はヤバいな」
彼らの周囲を飛び回るのは大きさも種類も異なる無数の虫たち。
ムカデのような多足類から、カブトやクワガタムシといった甲虫類。
そして最も数が多いのは蚊や
「噂の
「うぅう、ぜんぜん嬉しくありません……」
そう言いながら、ぴったりと身を寄せてくるリタ。
涙目の彼女は失礼ながら可愛かった。
普段の凛々しい姿を知っているからこそ、そのギャップがいい。
「これでもう少し胸があれば……」
「何か言いましたか、エイトール」
急に冷えた声だった。
先ほどまでの泣き顔はどこへやら。
二重人格を疑ってしまうほどの変わり身で、細まった
たまらずエイトールも「な、何も言ってないです!」と敬礼。
身体中から冷や汗が浮き出てきた。
「しかし虫かぁ……。蚊とかってたまに凄い毒を持ってるやつがいるって聞くけど、こいつらは大丈夫なのか?」
「たぶん大丈夫ですよ。帝国に生息する蚊はルズヴィル類かその系統種しかいませんから。その毒性は人間の持つ抗体で十分に対処できます。
「なに? リタって虫に詳しいの?」
「生物は得意でしたから」
ふふんっ、と得意げな顔を見せるリタ。
でもその腕はがっちりとエイトールの腕へと絡んでいる。
危険がないとわかっていても、目の前に大量の虫がいる。
その生理的嫌悪には抗えないのだろう。
「まあ、今は我慢して進むしかねぇな」
「そ、そうですね……うっ、口に虫が……っ」
とにもかくにも、今は前へと進むしかない状況。
リタの泣き言を聞きながら、ふたりは森の奥へと進んでいく。
そうして三十分ほどが過ぎた頃――。
ふと、その違和感にエイトールが足を止めた。
「……? どうしたのですか、エイトール?」
急な停止に、リタが疑問をぶつけると――。
「……なんか嫌な予感がする。いや、根拠はねぇんだけど」
「嫌な予感?」
リタは不思議そうな顔をしながら辺りを見渡す。
といっても、周囲は相変わらず飛び回る虫たちで埋め尽くされていた。
先ほどまでと変わらない環境。
はて――と、リタは首を傾げる。
エイトールはいったい何を感じ取ったのか?
「いや、悪い。
エイトールは首を横に振って、根拠のない不安を頭から追い出す。
己の中の直感を無視してリタと共に足を踏み出した。
落ち葉を踏む柔らかい感触。
特にこれまでと変わらない環境に、浮かべた不安を
しかし――!
「なっ……!?」
「虫たちが……!?」
ふたりの驚愕の声が重なる。
彼らが踏み出した足が、並んだ大樹を超えた瞬間――。
今まで周囲を飛び回っていた虫たち。
それが一斉にエイトールたちに集まり出したのだ。
「――カッ!!」
咄嗟、エイトールは短い
驚異的な肺活量を誇るエイトールのそれは単なる声に収まらない。
音の概念を超え、明確な衝撃となった
しかし、すぐにふたりへと殺到し返す虫たちを見て、エイトールの判断は早かった。
「リタ、退がるぞ!」
「は、はいっ!」
エイトールがリタの腕を引いて、来た道を戻る。
戻ったのは二歩か三歩。
それだけで虫たちはふたりへの興味をなくしたのか、辺りへと散り散りに飛んでいった。
そのことに、ほっと息を
エイトールは鋭く目を細めて、今の出来事に冷や汗を浮かべる。
「なるほど、ここからが本当の歓迎ってわけか」
リタを皇帝にするための旅路は、まだ始まったばかりである。
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