第2話

 

「それにしても、優衣ってば変わったよね」

 昔からの友人であるめぐみの言葉を耳にした優衣は、シフォンケーキに舌鼓を打ちながら、首を捻る。

「なにが?」

 聞き返しつつ、対面に座る萌のどことなく挑発的な笑いを見返す。

 白昼の喫茶店。例のごとく時間が余っていたのもあって、この中学時代からの友人からの食事の誘いに乗った。だぼだぼの黒いブラウスにやや短いスカートを合わせた友人は、最後に会った時よりも化粧が濃いめで、臭いも鼻につく。とはいえ、学生の頃から派手好きではあったため、許容範囲内ではあったが。

「全部だよ」

 はっきりと切って捨てた萌は、煙草の箱を取りだしたあと、綺麗に磨かれた大理石のテーブルの上へと視線を巡らせたあと、小さく舌打ちをした。

「この店、禁煙だよ」

「今気付いた……ちゃんと調べてから入ればよかったよ」

 箱を胸ポケットにしまい直したあと、萌はあらためて優衣の方に向き直る。

「それで、全部って?」

「あんたはもっとこう……エネルギッシュな女だったでしょ。それが今のあんたはなに? 専業主婦になってふぬけちゃった?」

「腑抜けたと言われても……」

 級友の言葉に戸惑いつつ、もう一口ケーキをぱくり。上品な甘さだった。

「大学を卒業したらバンドもスッパリ辞めちゃって、それでひがな家でぼ~っとしてるわけでしょ? あたしだったら、発狂してるよ」

「とりあえず今は、一人で弾いてるだけでもいいかなって」

 そう答えつつも、たまに他の音が欲しくなることがなくもない。ギターとボーカルしかやってこなかったけど、いっそ他の楽器もやってみて宅録でもしようか、などと思ったりもする。あるいは、学生の時みたいにまた音楽ソフトに手を出してみるのも良いかもしれない。

 とはいえ、この答えは友人のお気に召さなかったらしく、机に両掌を置いて半腰になった。萌の手前にあるコーヒーカップとモンブランの乗った皿が振動で揺れる。

「昔の優衣はもっとこう、周りの人を率先して引っ張ってたでしょ。それなのに、今はどうなの。金のある男に守ってもらってポヤポヤおとなしぃく、暮らしてるだけで満足なわけ?」

「満足だと思うけど」

 というよりも、悪い要素がどこにも見当たらない。家事にはそれなりの達成感をおぼえているし、趣味の時間もそこそこあり、夫との仲も良好。これ以上の生活というものもあるのかもしれないが、今の生活も現代社会基準で見れば、かなり恵まれている。ゆえに、萌の言っていることが優衣にはいまいちピンとこなかった。

「もっと、こう。破目を外したいとかは思わないわけ?」

「破目、ねぇ」

 ミルクティーを一口飲んで考えたあと、

「もう、そういうのはいいかなって」

 さほど躊躇いもなしにそんな答えが出てきた。眼前で期待を裏切られたような顔をする萌に少々申し訳なさをおぼえて、カップ内のやや淀んだ肌色に視線を落とす。

「遊ぶだけ遊んだしねぇ」

 振り返ってみれば、たしかに学生の頃は、何事においてもまず優衣自身が真っ先に動いていた気がした。

 きっかけはテレビでガールズバンドが演奏をしているのを見たこと。夢中になってすぐ親に頼みこみ、誕生日にエレキギターを買ってもらった。何ヶ月か一人で弄ったあと、中学のクラスで興味がありそうな人間に声をかけていきバンドを結成した(バンドメンバーにはドラムで萌も含まれていた)。そこからは自分から進んで行った無軌道な振る舞いとともに、中高はとにかくやりたいことだけをやって過ごした。大学にしても有名バンドを多く排出しているというところを志望校に据え、詰め込みじみた受験勉強の末に合格し、入学後三年以上を音楽に費やした(大学で新たに組んだバンドには、音楽性の違いとか練習量や時間などの問題で萌の姿はなかったが)。趣味の変化で、エレキよりもアコギを弾く時間が増えていたものの、魂のほとばしるような熱情は長い間、継続していた。とはいえ、終わりはいつかやってくるわけで……。

「あの頃の情熱はどこにいったわけ?」

 眼前には友人の不機嫌そうな顔。それにしても今日の萌はいつになくカリカリしている気がした。嫌なことでもあったのかな? などと勘繰ったあと、

「完全燃焼した、ってことで一つ、どうかな」

 機嫌を窺うように答えた。だが、優衣の言葉や振る舞いがより気に障ったのか、萌はモンブランの頂上にフォークを勢いよく突き刺した。

「プロになれなかったらからそんなこと言ってるわけ?」

 見当違いだと感じつつも、たしかに昔の自分はほぼ疑いなくメジャーデビューするものだと信じ込んでいたなと思い出す。ガールズバンドからパンクロック、シティポップやフォーク、そこから初期の日本語ロックや彼らが影響を受けた洋楽などへと、興味こそ移り変わっていたものの、バンドをやっている間の最終目標はかなり後まで音楽で食っていくことだった。

「たぶん、違うかな」

 検討の余地は多分にあったものの、さしあたってはそう答える。考えはじめると数年前のことだけに、なんとはなしに過去の自らの思考もはっきりしてきた。

 大学の時に組んだバンド『あたらくしあ』は、卒業するまでの間は常に優衣が引っ張っていた。作詞作曲からスタジオの予約や練習スケージュルの作成、ライブハウスとの交渉など、ほぼほぼすべてを主導的にこなしていた。最終的に初期の日本語ロックのような曲を演奏していこうという趣旨でまとまったこのバンドは、当時サークル内では根強い支持があり、数は少なかったが音楽会社からの声掛けもなくはなかった。しかし、そうやって続けているうちに、年々、違和感のようなものが強まっていった。優衣が望んで行なっているはずなのに、段々と自らの試み自体が重荷になっていっているような……そんな。

「大学三年の途中ぐらいかな……私はそんなにプロになるのは望んでないなって気付いたんだよ」

 遡ってみれば、高校の時からその兆候はあったかもしれない。目標へとまっしぐらに向かいつつも、これでいいのか、という問いかけはあった。そこを深く突き詰めないままたどり着いたのが、バンドを辞めるという決断だった。

「だから、萌には悪いけどあんまりやり残したっていう気持ちはないんだよね。とりあえず、あの頃にやりたいことはだいたいやったし。あとは一人で適当に楽しめれば、今はいいよ」

 優衣の答えに、萌は渋面で応じつつ、残っているモンブランを大口でそそくさと片付けたあと、大きく溜め息を吐いた。

「やっぱり、納得いかない。あたし、優衣のかすれ気味の歌も泣きそうになるギターもずっと好きだったのに」

「それは……どうも」

 真正面から誉められる機会は、なくもなかったものの、ここまで近しい相手からだとどうにも照れが勝る。顔が熱くなり頬を掻いていると、萌が鞄からなにやら紙切れを二枚ほど取りだした。

「これは?」

「『あたらくしあ』のライブチケット」

 そう言えば、解散してなかったんだよね。すっかり、音楽関係に対するアンテナを伸ばさなくなっていた優衣は、思い出しながら、なんとはなしにチケットの端を掴んで見下ろす。

「良かったら、一緒に行かない」

 萌の誘いを受けた優衣はチケットに書かれた日程が日曜日なのを確認してから、眉を顰める。

「休日は夫と過ごしたいんだけど」

「じゃあ、旦那さんも連れてくればいいよ。なんなら、チケットもこっちが持つし」

「話してはみるけど……ダメでも怒らないでよ」

 少なくとも優衣の知っている夫は、クラシックを好んで聞く人間であり、優衣がいた頃の音楽性はあまり趣味ではない気がした。

「それでいいよ。来てくれるってだけであたしとしては御の字だし」

 そう言って萌はコーヒーをぐいっと飲み干す。優衣もそれに合わせて残りのミルクティーを口にしながら、たぶん夫は首を縦に振らないだろうな、と考える。というよりも、優衣自身がたまの休日くらい夫とだらだらと過ごしたかったのだ。


 萌とのランチを済ませた日の夜。夕食を済ませて一心地ついたあと、お茶を出しながら宏樹に日曜日の誘いを持ちかけた。

「いいんじゃないか。行ってきなよ」

 穏やかな声でそう答えられて優衣は面食らう。 

「行ってきなよって……あなたはどうするの?」

「いやぁ、実はね。接待のゴルフが入っちゃって」

 気まずげに頭を掻く夫。急遽決まったらしく、断われなかったとのこと。

 結婚してからというもの二人の時間を大事にしてくれている宏樹にしては珍しい物言いに、優衣は少々動揺した。

 でもゴルフは朝からでしょ……ライブは夜からだし、と言いかけて止める。この夫はさほど運動神経が良くなく、日頃からも激務においても心身を消耗しているのがありありと窺えた。だとすれば、たまの休日にさほど好みでもない運動と、諸々の人間関係の摩擦で疲労した夫を更に振り回すわけにはいかない。

「わかりました。じゃあ、日曜日は夜遅くなるかもしれないけど、あんまり気にしないでね。夕食は……」

「こっちでなんとかするよ。だから、心配しないで楽しんでおいで」

「ありがと……」

 礼を述べつつも、あまり気が進まない。昔の知り合いに会うというのは、期待よりも不安が勝った。この辺も昔は積極的に飛びこんでいけたのに、今はおどおどとしてしまう優衣がいる。萌が言っていた、優衣が変わった、というのは真実かもしれなかった。

「この埋め合わせは、必ずするからさ」

 湯呑みを机の上に置き直してから、苦笑いをしながら拝んでくる夫に、優衣は、無理しなくていいんだよ、あなたも忙しいんだから、と物分りの良さを前面に押し出した答えを返す。それから少しの間、夫婦同士の、ありがとう合戦に発展し、どちらともなく笑いだしたりもしたのだが、心の奥底では、日曜日の楽しみが無くなった落胆と、代わりに生えてきたイベントに対しての不安が膨らんでいた。

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