〈7日目/延長戦〉
ワゴン車の座席の下に潜り込んた三毛猫は、床に置いたスマホを足でしっかりと押さえながらそこでじっとしていた。後部のラゲッジスペースに載せてある荷物の影から結羽の顔が見えている。
「な、何なの……一体……」
不安そうな結羽の声が聞こえる。
「おとなしくしておけよ。さもないと、な」
近くで松上の声が聞こえた。声の方を見ると、結羽の足元の方に松上が座っていて、手にサバイバルナイフのようなものを握っている。「やめて」と彼女が小さな声を出したが、体は少しも動かせないようだ。おそらくスタンガンのようなものでやられたのだろう。松上はビニールテープで、しっかりと結羽の腕と足を縛っていき、その口をタオルで覆った。そして、スマホのシャッター音が聞こえたと思うと、リュックサックの脇に転がっていた結羽の母のスマホを拾い上げる。
「これで良し」
松上の声が聞こえ、その後に「フフフ」という笑い声が聞こえた。
「うまくいったじゃないか」
「ああ……確かに」
「何だ? 怯えてるのか、大村。お前らしくもないぜ」
「いや……お前は平気なのか」
「俺という存在は、もう少しで消える。そう思えば怖いものはないぜ。カネがあれば別人に成り代わることだって簡単にできるんだからな。何なら、お前も後でついてきてもいいんだぞ」
ハハハ、と松上の笑い声が聞こえる。車はしばらく走っていたが、どこかで止まった。
「じゃあな。そっちもうまくやれよ」
松上の声が聞こえてドアがバタンと閉まる。すると、再び車は静かに走り出した。
(これで大村だけか)
松上は消えたが、結羽の危機が去った訳ではない。彼女はしっかりと縛られており、自分で逃げるのは無理だ。今、無理に結羽を助けようとして大村に手を出しても、猫1匹など簡単に車の外に放り出されてしまうだろう。そう思って、スマホの画面を立ち上げる。しかし、猫の手ではスマホ画面の操作が難しい。それに揺れる車の中だ。
必死にGPSのアプリを立ち上げる。そして位置情報の共有先から清太を選択しようとする。しかし、猫の手からするとタッチする部分が小さすぎて、何度押してみてもどうしてもそこから先に進むことができない。
(何だよ! ここまできて、どうしてできないんだ)
その時、座席の下から結羽の顔が見えた。すると、その視線がこちらを向いて三毛猫と真っすぐに合った。ハッとして、スマホを置いて、それを彼女の方にそっと差し出した。横になっている彼女の縛られた手が、スマホに伸びる。
(清太に……頼む)
彼女の目を見つめて必死に願う。すると彼女がスマホをこちらに押し戻した。画面には清太に共有のリクエストを送信したと示されている。それを見て、スマホとともに再び座席の奥の方に潜り込んだ。
車はまだ走り続けている。どれくらい走っているのだろう。じっとその場で待っていると、相当長い時間のように感じたが、どこかで曲がった先から、急に車がガタガタと揺れ始めた。畑の中の道のような舗装されていない道のようだ。そこを少し行ったところで、車はようやく停まった。
運転席のドアが開いてすぐにバタンと閉まる。そして、人が歩く音が聞こえたと思うと、今度はラゲッジスペースの後ろのドアが開いた。そこに立っていたのは大村だ。
「大人しくしろよ。結羽ちゃん」
そう言って彼はニヤッとしてから、そこに置いてあった何かの荷物を取り出して、再びドアを閉めた。後部の窓の向こうには、草むらと川の土手のようなものしか見えず、どこにいるのか全く分からない。しばらくすると、車が何かで覆われ始めた。天気が悪いせいで既に薄暗くなっていた車内がさらに暗くなる。
そして再び後部のドアが開いた。大村はニヤニヤした顔で、ラゲッジスペースに上がって結羽に近づいてくる。
「さあて。どうするかな」
ポケットからサバイバルナイフを取り出して彼女の顔の前に突き出す。結羽がハッとした様子で体を引いた。すると大村は、後部ドアを開けたまま、そこでスマホを触り始めた。
(どうする?)
大村はそこにいるが、すぐに何かする様子ではなさそうだ。今ここで飛び出しても、自分だけ降ろされて、大村に車で逃げられたら元も子もない。周りの様子もよく分からないが、おそらく人気のない場所だろう。事前に計画してここに来ているはずだから、そう簡単に見つからない自信があるのかもしれない。
仕方なく、座席シートの奥で大村の様子を窺う。奴が結羽に何かしようとしたら、全力で飛び掛かる気持ちだけを胸に、じっと息を潜めた。
******
しばらくして、大村は一度ラゲッジスペースから運転席に戻り、車のエンジンをかけてエアコンを付けた。風の流れる音が聞こえてくる。そして、再び後部のドアを開け、ラゲッジスペースに戻ってくると、その中に乗り込んで内側からドアを閉めた。狭いスペースに大村の大きな体が迫る。結羽は縛られたままその端の方に座っているが、大村は彼女を見つめてニヤッとした。
「ふうん……お前、よく見ると、結構可愛いじゃねえか」
「——」
結羽は大村の方を見つめて怯えた表情をする。すると大村は結羽に近づき、その口に巻かれていたタオルを取った。結羽が震える声で言う。
「一体……これは、何のつもりなの?」
「まあ、少し黙ってろよ。折角外してやったんだから……」
その時、スマホの音が聞こえた。大村はポケットからスマホを取り出し、それを耳元に当ててニヤッと笑う。そして、それを結羽の方に向けた。
「これ……聞いてみろよ」
大村が言うとスマホから声が聞こえてきた。
『ああ。俺が全部やった。顧客から預かった金を、偽の証券を発行して横領してきた。もうそれが相当の額になってる』
『バカヤロウ! どうしてそんな事をした!』
『すまん、清勝! しかし、カネは必ず返す。もう少しだけ待てば、必ず戻って来るんだ』
『そんな事が……ウっ』
そこで音は切れた。話していたのは間違いなく智治と父だ。それはおそらく結羽にも分かったのだろう。彼女は真っ青な表情をしていた。
「どうしたんだろうなあ。これ」
「まさか……そんな」
「これって、お前のお父さんだよな。そうだろ?」
大村はスマホを脇に置いた。
「お前のお父さんは組合のお金を横領した犯罪者だ。聞こえただろ? 自分で言ったんだからな。これって、重要な証拠だよなあ」
「……何が言いたいの?」
「どうする? 黙っていて欲しいか?」
大村が膝をついて結羽に近づく。そして、結羽の足首に触れた。彼女がビクッとして縛られた足を必死に大村から離す。
「お前の対応次第だぜ。俺には、この音声をマスコミに流すことも、お前のクラスの誰かに流すこともできるんだ。そうなったら、どうなる?」
大村は再び一歩近づく。結羽は必死に後ろに逃げようとするが、もうそれ以上のスペースはない。
「高校生なんだから分かるだろ?」
そう言って大村は結羽のスカートを引き上げようとした。
(やめろ!)
三毛猫の清太は夢中で座席の下から飛び出した。そして、大村の頭に向かって飛び掛かる。
「イテエッ!」
突然の攻撃に大村はそこで暴れて、思い切り天井に頭をぶつけた。その間にその背中の方に回って必死に爪を立てる。
「クソッ! やめろ!」
大村は頭を抱えながら転げるように後部のドアを内側から開けて、外に這い出した。その間に、三毛猫は結羽の前を遮るようにして大村を睨んだ。外に出た大村は、立ち上がってこちらを見た。
「チクショウ! お前。まさか……さっきの猫か」
大村がこちらを睨む。その視線に負けじとじっと睨む。
「何だ……。忠犬、いや忠猫のつもりか。たった1匹だけで、何ができるっていうんだ」
ハハハと大村は笑い出した。そして腕を伸ばして、三毛猫の体を掴もうとしてきた。必死にその腕に爪を立てる。
「イテエ!」
大村が腕を引いた。
「テメエ! いい気になりやがって!」
睨んだ大村は、再びこちらに腕を伸ばしてきた。それに飛び掛かろうとした時、突然体が宙に浮いたような気がした。
ドン!
大きな音が聞こえたと思うと、いつの間にかラゲッジスペースに体が倒れていた。どうやら大村が無理やりに腕を振って、それに当たって体が吹っ飛んだようだ。次第に腹の辺りに強烈な痛みを感じてくる。背中も思い切り打ったようでジンジンとしてきた。
「大した事ねえなあ。所詮、猫じゃねえか」
悠然とした様子で大村が言う。
「やめて!」
結羽が叫ぶ。すると大村は彼女の方を見てニヤッとした。
「待ってろよ。すぐにカタをつけてやるぜ」
倒れている自分に大村が再び腕を伸ばしてくる。
(くっ……こんなところで……)
三毛猫は腹をかばいながらゆっくりと立ち上がる。そして、細い足に力を込めた。
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