第4話 リリィ、初めてのデレ

 3日目。


 全てを諦めていた奴隷のエルフも、この辺りでようやく異変に気が付いたらしい。


 …………あれ、何かいつもと違うぞ────と。

 その兆候は、小さな手に現れていた。


「…………お?」


 朝起きると、その事にすぐ気がついた。俺とリリィはひとつのベッドでくっついて寝ているからだ。俺は隣で眠るリリィの姿を見て、口の端を釣り上げた。


 ────なんと、リリィが俺のシャツを掴んでいるではないか。片手の親指を口に、もう片方の手で小さく俺の服をつまんでいる。わざとかどうかは分からないが、少なくとも警戒している相手にはそんな事をしないだろう。少しは俺に気を許してくれたのかもしれない。


「…………今日はいい一日になりそうだな」


 どこから手を付けたらいいか分からなかったリリィ育成計画も、なんとかなりそうな気がしてきた。リリィの心は少しずつ輝きを取り戻している。それが分かれば、あとは突っ走るだけだ。


 俺はリリィが目覚めるまでの間、キモい顔でその寝顔を見つめていた。





 これでリリィが俺に対して前向きになってくれれば良かったのだが、育児というのはそう甘くはなかった。


「おれの、なまえ、ヴァイス。わかるか?」

「…………」

「あなたの、おなまえ、おしえて?」

「…………」

「…………ダメか」


 座らせたリリィの前にしゃがんで目線を合わせ、出来る限り優しい声で話しかけてみたものの、リリィは相変わらずの無反応を貫いている。まあダメだろうとは思っていたんだが、他にどうすればいいのかも分からなかった。

 だってよ、ちびっ子に言葉を教えるのとは訳が違うんだよ。理解出来るやつの知識を増やすのと、理解出来ない奴を理解出来るようにするのとでは全く違うだろ。


「…………まずはこの無反応を何とかしないとな…………」


 問題を切り分けて考えよう。まずはこの無反応だ。無反応を解消した先に、言語学習がある。そしてその先にリリィの名前がある。改めて説明すると、今はリリィという名前があるんだが当時は無かった。それで俺はリリィの名前を決めるために、リリィに言葉を教えている最中だ。


「…………ったってなあ…………」


 無反応を解消するって…………一体どうすればいいんだ?

 そもそもどうしてリリィは無反応なんだ?

 リリィの心は今、どういう感じになっている?


 ガキのことなんか何一つ分からなかった。俺は大人だからだ。だが俺にもガキだった頃はある。その頃の記憶を掘り起こすことで、なにかヒントが得られるかもしれない。俺はしばし記憶の海を泳ぐことにした。





 ────ゼニスの大半の奴らとは違い、俺は極々一般的な家庭に生まれ育った。帝都生まれ帝都育ち。親の愛情も人並みには受けてきたはずだ。もう10年は会っていないが、変わらず帝都に住んでいるであろう両親は、学校を卒業してすぐ帝都を飛び出した俺を今も心配しているに違いない。それについては申し訳なく思っている。


 …………だけど仕方ないんだよ。教師の奴ら、揃いも揃って俺に魔法省の幹部になれって言うんだぜ?

 何でも俺は帝都の歴史上でも類を見ない天才魔法使いらしいんだけどよ。そんなの知ったこっちゃねえって話だろ。だから俺は帝都を飛び出して、まあ世界を放浪した後、今はこうして悪人の街ゼニスに根を張っている。基本的に全てが終わっているゼニスの情報は外に漏れにくく俺には都合が良かったって訳だ。帝都はまだ俺を魔法省にぶち込むのを諦めてないって話だからな。


 まあ、今の話はいいか。問題は昔の話だ。


 とはいえ、昔の事なんか殆ど覚えてなかった。この10年の出来事があまりにも濃すぎて、帝都に住んでいた時の頃はどんどん記憶の彼方へ押しやられてしまっていた。覚えていることと言えば親父の背中のデカさとか、母親に抱っこされた時の安心感とか、そういう抽象的なものばかりだ。勿論、どうやって言葉を覚えたかも記憶にない。


 まあだが、大抵のやつがそんなもんじゃないのかなとも思う。小さい頃の出来事を鮮明に覚えてる奴がいたらそれはそれで怖いだろ。逆に、そんな記憶に残るような出来事が無かったことが一番の幸福と言えるかもしれない。ゼニスには幼い頃の恐怖や憎しみを、今も抱えて生きている奴が大勢いる。


「…………出掛けるか」


 どうやら俺の記憶の中には正解はないらしい。それなら他の誰かに訊くしかないだろう。そういえば昨日ホロが「何でも訊いて」と言っていたような気もする。申し訳ないが早速頼らせて貰うとするか。


「少し出かけてくる。すぐ帰ってくるからいい子にしてろよ」


 変わらずぼーっと椅子に座って虚空を見つめているリリィの頭を撫で、俺はホロの店へと向かった。


「邪魔するぞ」


 ホロの店は相変わらず閑散としていた。いや、相変わらずなのかは分からないが、少なくとも昨日今日と客の姿は見当たらない。この男根主義の極みのようなゼニスで、女性服専門店にどれほどの需要があるのかは俺には分からない所だ。


「いらっしゃい…………ってヴァイスじゃない。どうしたの、何か訊きに来たの?」

「ああ。少しな」


 カウンターに肘をついていたホロが、俺の姿を認めると渋々といった様子で背伸びをした。おおよそ客に対する態度ではないが、ゼニスでそんな事を気にするやつはいない。


「エルフの事についてなんだが」

「アンタが飼ってる?」

「そうだ」


 飼ってる、という言い方がまさにゼニス節だ。奴隷が当たり前に日常に存在する街。


「俺が話しかけても全く無反応でな。どうすればいいかと頭を悩ませてる所だ」

「あー、確かに私が着替えさせてる時もお人形さんみたいだったわね。でも奴隷って基本そんな感じじゃないの? 元気な奴隷なんていないでしょ?」

「それはそうなんだが。だが全く無反応というのも極端だろ」

「確かにそうねえ。それで、私に何を訊きに来たのよ?」

「あいつを元気にする方法を知ってたら教えてくれ」


 俺の質問にホロはうーんと唸って顎に手を当てた。


「…………分からないわねえ。これまでの人生が原因でそうなってるんだとは思うけど。子供育てた経験もないし詳しいことは何も言えないわ。ごめんねヴァイス」

「いや、いいさ。こっちこそ変なこと訊いて悪かったな」


 軽く手を振り店を出ようとする俺に、ホロは声をかけてきた。


「あ、そうだヴァイス。ロレットさんなら分かるんじゃない? あの人確か5人くらい子供いるらしいわよ」

「ロレットさんかあ…………確かに含蓄はありそうだが」


 だが、今は古びた酒場の店主だぞ。もう完全にジジイだし、子供を育ててたのなんて何十年も前の話だろ。


「ねえ、今晩訊きに行きましょうよ。私久しぶりにお酒飲みたいしさ」

「それが目的だろ絶対」

「違うわよ! あんまり遅くなったらあのエルフの子に悪いから、7時に酒場集合ね」

「…………勝手に決まってるし」


  果たしてあのオヤジに心を閉ざした奴隷を元気にする方法など分かるのか。あまり期待は出来なかったが、今は藁でも掴む思いだ。俺はホロの誘いを飲むことにしたのだった。

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