第18話 顔色

「……ねぇ」

「ん?」

「その立ち位置、どうにかならないの?」


 もうすぐ学院へ到着するというその道中で、不意に前を歩く神坂さんが立ち止まり、こちらへ振り向いた。

 一定の距離を保ちながら、彼女に倣って私も足を止める。目を細める彼女は、呆れたような眼差しを向けていた。


「半径二メートル以内は近付いちゃいけないんでしょ?」


 神坂さんのお世話係が厳守すべき『付き人の六ヶ条』というルールの一つ、『体に触れない』を忠実に守っているだけで、私は何も責められるような行動はとっていない。


 何しろ、これらのルールを一つでも破ったらクビという過酷な条件を背負っているのだから、無論のこと慎重にもなる。


 収入源の九割以上を占める予定であるこのアルバイトがクビにでもなろうものなら、また新しい働き口を探さないといけなくなる。それだけは何としても避けたい。

 というわけで、万が一にも不祥事が起きないよう、神坂さんとは距離を取って歩いている。


 電車に乗る時も細心の注意を払い、吊り革二つ分の間隔を空けて立っていた。

 帰宅ラッシュ時の電車内ではどうしようかと今から不安で仕方ないけど、これくらい警戒するに越したことはない。


 それに、業務初日ということもありどれくらいの距離感で接すればいいのかがわからないので、ひとまずは様子見でいこうと考えての結果がこれだ。

 護衛も兼ねているのだから、割と適度な間隔だと思う。


「そんな規則を設けた覚えはないわ」

「似たようなもんじゃん」

「背後につけられると落ち着かないのだけど」

「じゃあ、気配消しとく」

「意識しすぎよ」

「クビになりたくないんで」


 押し問答のような言い合いを繰り返し、結局先に折れたのは神坂さんだった。


「はぁ…………勝手にして」


 ため息を吐き、踵を返して前を歩く。私も彼女の歩幅に合わせて歩みを再開した。


 神坂さんは感情表現が乏しい。

 以前、杏華さんもそんな感じのことを言っていたけど、本当にその通りだ。


 他人が今どんなことを考えているのか、どんな感情を抱いているのか、その心の内を理解するなんてことはもちろん不可能だけど、彼女はまるで次元が違う。表情も声音も、精巧に作られた人形のようだ。


 だから、少し不安になる。彼女は今、どんな気持ちなのだろうかと。


「神坂さん」

「……話しかけられると嫌でもあなたの気配を感じてしまうわ」


 今度は振り向かずに返答される。

 怒ってはいない、のかな。何にしても、私は彼女にどうしても話しかけないと気が済まない事情がある。

 前を向き続ける神坂さんの背中に、躊躇なく声をかけた。


「怒ってるなら"怒ってる"って言ってよ」

「……?」


 再び立ち止まって振り返った彼女の表情は、僅かに怪訝な色をしていた。


「……あなた、人の機嫌を伺うような性格だったかしら」

「あんたに対しては別」


 他人の気持ちがわからないからと言って、いちいち気にするのは私の性分ではない。

 その人が笑っていようが怒っていようが、私が好かれていようが嫌われていようが、正直何だっていい。


 けれど、私の雇用主である神坂さんの感情だけは、少しでもいいから理解したい。その理由はただ一つ。


「『不快にさせる言動をしない』っていうルールに抵触するかもしれないからさ。無意識で気に障るようなことしちゃったら取り返しつかないじゃん? だから、キレる前に教えてくれると嬉しい」


 相手の顔色を窺うことが苦手な私にとっては、いつどんなことで地雷を踏んでしまうか予測がつかない。

 少しでもクビになりそうな要因となる根源の芽は摘んでおきたいというのが本音だ。


 特に神坂さんは表情だけでなく発言も意味深なところがあるから、どれだけ注意しても彼女の気分を推し量ることは非常に難しい。

 であれば、本人から率直に今の感情を教えてもらう方が手っ取り早いのではないか。


「その要求の魂胆は何?」

「……魂胆? 解雇されたくないから、その保険をかけてるだけなんだけど」


 思っていたそばから意味不明な問い掛けをされる。

 何と答えればいいか、その正解すらもわからないので正直な思いを伝えるしかない。


「あなたは……他人の好意や感情に興味があるの?」

「何? その質問」


 まるで私が人の心を持たないロボットのようだと揶揄しているような言い草だ。失礼な。れっきとした人情を持った人間ですが。

 神坂さんだって人の胸中を気にするような性格には見えないのに。


 彼女の口から出たとは思えない言葉に呆然としながら、それでも真剣な表情を崩さないものだから思わず小さく笑ってしまった。


「ない。……っていうのはちょっと語弊があるかな。他人の気持ちなんてその人にしかわからないものなんだし、目に見えない不確かなものを気にするだけ無駄だとは思ってる」

「なら、あなたが私の機嫌を把握しようとするのは、あくまで業務上の行為だと?」

「……? そうだね。あんたに嫌われたくないからとか、そういう個人的な心理によるものじゃなくて、規則を守るためにやってる業務上の確認作業ってとこ?私が知りたいのは、単純にあんたが今不快に思っているか、そうじゃないかってことだけよ。言ったでしょ、仕事に私情を持ち込んだりしないって」


 さっきから、こっちこそ彼女の腹の内が知りたいと思うような不可解な質問ばかり投げかけてくる。

 それで気が済むのならいくらでも答えるけど、まるで尋問を受けているような圧迫感すら覚える。


 ……まさか、今さら抜き打ち面接? 身構える私を横目に、神坂さんはようやく質問を止めて結論を口にした。


「気にするだけ無駄、というのなら、私に対しても同様に接してくれて構わないわ」

「……それはつまり、機嫌を伺うなってこと?」

「ええ」

「いや、こっちはクビがかかってるんですけど」

「あなたが何も考えず普通にしていれば、よほどのことがない限り私は不快になることはないから」


 それが彼女の答えだろうか。

 外見だけでは到底判断できない彼女の気持ちについて、本人がそう言っているのなら、従うしかない。


 確かに、普通に話しているだけで相手を不愉快にさせるような煩わしい人はそうそういないし、自分で証言するのはおこがましいけれど、私もそっち側の類いの人間ではない、と信じている。


 余計な気遣いは不要だというのなら、いつも通りの対応を見せればいいのかな。本当に不快にならないかどうかは疑わしいけれど。

 とにかく、これで一つ不安要素が解消した。神坂さんの寛大な心に感謝しなければ。


「……後からここが気に食わなかったとか、不満垂れるのはなしだからね。もしその時がきたら全力で抗議するから」


 別れ際のカップルみたいに、実はあなたのこういうところが嫌だったの、とか終わった後に文句をぶつけられるのは御免だ。


 そもそも、神坂さんは雇用主なのだから色々と口出しする権利があるはず。

 不満があるのなら遠慮なく言ってほしいし、私もお世話係である以上、彼女の主張にはできる限り応えていきたい。


「同感ね。私も、未練がましく不平を言われるのは嫌いだから。……それに、あなたに私の機嫌を心配されるのは気味が悪いわ」

「ちょっと、今なんつった?」


 私、一応神坂さんの付き人なんですけど?

 まるで信用されてないな。本当にこの態度で不快に思われてないのか……?


 神坂さんは私を無視して歩みを進める。気付けば、学院の校門はすぐそこだった。

 姿勢の美しさを保ち続ける彼女に向かって、懲りもせず二度目の名前を呼ぶ。


「神坂さん」

「…………」

「こーさかさーん。怒ってる?」

「……話を聞いていた? その確認をやめてと言ったのだけど」


 隣ではなく縦に並んでいるうえ、お互いに前を向いて歩きながら話しているので、傍から見ればそれぞれが独り言を発しているような、奇妙な光景に映っていることだろう。


「確認じゃなくて実験ですー。あんたの怒りの沸点がどこなのかっていう」

「私を煽ったの?」

「まさか。そんな人聞きの悪い――ほら、声が不機嫌そうに聞こえるよ?」

「……怒っているのではなくて、呆れているのよ」


 背中越しでもため息を吐いているのがわかる。彼女の頑固なポーカーフェイスを崩せるようになるのは、果てしなく先になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る