第2章

第17話 始まり

 時刻は午前六時。

 普段の平日ならまだ寝ているこの時間に、私は学校へ行くための身支度をしていた。


 ここ数ヶ月は休日の早朝アルバイトでしか早起きしていなかったから、学校のある日に朝日を拝めるのは新鮮だ。

 窓から差し込む光を浴びながら、今日が好天で良かったと満足しながら頷く。


 スカートとブラウスは着用済みで、ヘアセットも完璧。と言っても、ブラシで髪を梳かしただけで特別なことは何もしていないけれど。


 いつもの如くはねる寝癖を適当に押さえ込むと、いい感じに毛先にかけて緩やかウェーブになるので、身だしなみを整える手間が減ってかなり楽。


 鏡に映る自分の髪を見て、頭頂部の色が黒くなってきたことに気付く。そろそろ染め直しの時期かもしれない。


 家を出るまでに少し時間に余裕がある。朝食を軽く済ませてしまおう。


 賞味期限が今日までの食パンをトースターに放り込む。

 その間に冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップの七分目まで注ぐ。一気に飲み干したところで、そういえば牛乳の賞味期限っていつまでだっけと地味に気になってしまった。

 まあ、いっか。死にはしないし。


 空になったコップを置き一息吐いたところで、トースターが焼き上がりの音を鳴らした。

 熱々の食パンにバターを乗せるとあっという間に溶けて、じわりとパンに染み込んでいく。端からかぶり付いた。火傷した。

 牛乳残しておけば良かったと若干後悔しつつ、一分も経たずに完食。


 節約生活に慣れてしまったため、少ない量でも物足りなさを感じなくなった。牛乳一杯と食パン一枚で今日は乗り切れる。


 朝食を済ませ、いよいよ出発の時。

 ネクタイを結び、ブレザーを羽織る。

 学院指定のスクールバッグはいくつか種類があるけど、私は比較的大容量のリュックを使っている。


 今まで学院で使う教科書や参考書よりも、アルバイトで使う荷物の方が多く入っていた。

 でも、今日からは遅刻も早退も欠席もやめて、ちゃんと一限目から授業を受けるんだ。

 リュックの中には、もう余計なものは入っていない。


 意気込んだはいいものの、今日は始業式のみなので持ち物自体は少ない。けれど、念のため忘れ物がないか確認する。……よし、大丈夫だ。


「いってきます」


 リュックを背負い、誰もいない部屋に声をかける。

 お母さんは仕事の関係で家を留守にしていることが多いため、もはや一人で生活しているようなものだ。


 実のところ、仕事かどうかは私もわからない。たとえ男と遊んでいたとしても、今さら注意したところで遊び癖はもう治らないし。

 そう考えると、三者面談に駆け付けてくれたのは本当に奇跡だった。


 いつかまた、お父さんがいた頃みたいに過ごせる日が来るのかな。

 実現し得ない未来を想像して自嘲気味に小さく笑い、玄関のドアを開け放った。


 自宅から学院までは、電車で三十分ほどの距離がある。


 通常の登校時間より一時間以上早く乗ると、嘘のように車内が閑散としていた。

 朝にしては珍しく座席がちらほら空いているけど、座ると眠ってしまいそうなのでドア横のスペースに寄り掛かることにする。


 流れていく景色を、車窓からぼんやり眺める。ここから見えるのは高層ビルやマンションばかりだ。

 変わり映えのしない眺望に眠気が襲ってくる。意思に反して垂れてくる目蓋に強く力を入れて、どうにか目を瞑ることだけは避けた。


 進級初日から気を抜いてはいけない。

 高校二年生としての生活が始まるだけでなく、神坂さんのお世話係として働く初日が今日なのだから。


 契約書では四月一日からとなっていたけど、勤務開始は春休み明けでいいと言われた。

 なんでも、春休みはほとんど用事がなく家にいるから、その間はいつも通り杏華さんがお世話をしてくれるとか。


 私の役割は、神坂さんが学院にいる間のお目付け役のようなもの、らしい。

 彼女と一緒に登下校して、呼び出しがかかればすぐに駆け付ける。いつでも連絡が取れるように、お互いの電話番号はすでに交換済みだ。


 そういうことで、仕事の始業時間である七時までには到着できるように、神坂さんを迎えに行っている。


 彼女の自宅は奇跡的に学院方面にあるので、わざわざ遠回りする手間がかからない。

 そのうえ、送り迎えするための交通費は全額免除してくれるというから、学院までの定期代が半分浮いて一石二鳥。ありがたい。


 特に何をするでもなくぼんやりとしていたら、目的の駅に到着した。


 神坂さんの住むタワーマンションは駅から五分の場所にある。

 電車からもそのマンションが見えるのだけど、ここら一等地の中で最も高さのある建物だった。


 いかにも富裕層しか住めないようなマンションの最上階全室を所有しているというのだから、それだけでとんでもないお嬢様であることが窺える。


 彼女とはマンションのエントランスで待ち合わせすることになっているので、共用スペースにある椅子に座って待つことにしよう。


 このマンションに来るのは今回で二回目だけど、外観も当然ながら内観の荘厳さも目を見張るものがある。


 大きなエントランスホールの中にラウンジのようなスペースがあり、談話や休憩のためのソファやテーブルが置かれている。

 隅には岩のような形をした巨大な謎のオブジェと、大型の観葉植物があった。


 天井には間接照明、床にはマーブル模様の大理石が敷き詰められており、全体的に上品で高級感溢れる内装になっている。

 そして、全く音のしない自動ドアを私はここで初めて見た。


 天井が高く奥行きもあり、素晴らしいほどの開放感を味わえるのだけど、それ以上に場違い感が半端ない。まるで大都会に田舎者が紛れ込んでしまったような……。


 時間を確認しようと左手首に視線を移しかけて、一人の少女がこちらに近付いて来るのを視界に捉える。お目当ての人物の登場に、自然と口元が緩んだ。

 椅子から立ち上がり、彼女の元へ向かう。


「おはよ、神坂さん」

「……おはよう」


 私をじっと見つめた後ふいと目を逸らすも、しっかり挨拶。機械音声のような抑揚のなさは通常運転だった。

 そして、一本の乱れもない綺麗な黒髪と、お手本のような制服の着こなしも相変わらずだ。


 私とは違い、学院指定のスクールバッグは手提げのサッチェルバッグを使用している。

 リュックはナイロン製だけど、彼女のバッグは高級レザーが用いられているようで。

 素材は一級品でも、教科書が数冊しか入らなそうなコンパクトさは、個人的に気になる点ではあるけれど。


 外見、身だしなみ、所作、どれを取っても一般的な女子高生との格の違いがまざまざと感じられる。

 同じ制服を着ているのに、同じ学院に通っているとは思えないこのオーラの差。改めて神坂さんはお嬢様なんだと言う事実を突き付けられた。


「二週間ぶりくらいだね。春休みは満喫した?」

「それなりには」

「何してたの?」

「……勉強とか、読書とか」

「勉強……あ、宿題ってあったっけ」

「クラスによって違うはずだけれど。あなたは選抜クラスだったから、少なくとも予習は課せられていたはずよ」

「あー……」


 一瞬体が固まる。けれど、勉強や課題をことごとく放置してきたことはもはや既成事実なので、今さら慌てるようなことはしない。


 都合の悪いことは受け付けない体になってしまったようで、街頭演説を通り過ぎるように、神坂さんの話を右から左へ聞き流した。


「その様子だと、何も手を付けていないようね」

「私は別の用事があったから」


 胸を張って答える。……ちなみに、決して言い訳ではないので。

 私の春休みの用事と言えばもちろん、アルバイト以外にない。長期休暇は稼ぎ時で、ここぞとばかりにシフトを入れまくった。

 おかげで今日も絶賛寝不足だ。


 神坂さんは特に関心があるわけでもなさそうで、堂々とやっていない宣言をした私の発言には目もくれなかった。


「それは……アルバイト?」

「そ。生活がかかってるんでね」

「今やっているアルバイトは、今後も続けるの?」


 興味があるのかもわからないような声音だったけど、瞬きもせず目を合わせてくるので、私もそれに応えるように視線を向ける。


「喫茶店以外のバイトは昨日全部辞めてきた。こっちの方が断然稼げるし、わざわざ掛け持ちする必要ないかなって」

「……賢明な判断ね。疲労でこちらの業務をおざなりにされたら困るもの」


 当然だとでも言うように吐き捨てて、神坂さんはエントランスの外へ歩いていく。

 素直に"こっちの仕事だけに集中してほしいから"とか言えないのかな……。でも、それが彼女なりの伝え方なのだろう。


 置いて行かれないように、私も神坂さんの後を追って歩き始めた。

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