幕間 思惑
聖煌学院始まって以来の問題児が現れたという噂が流れ始めたのは、入学してから半年も経っていない頃だった。
自己都合による遅刻・早退は当たり前。学院に連絡も入れず欠席を繰り返し、授業に出席したかと思えば今度は悪びれもせず居眠り。
説教中の態度は大人しいものの、教師を真っ向から射抜く鋭い眼光はまるで不良そのもの。成績に関しては言わずもがな。
いくら個性的な生徒が集まる聖煌といえど、ここまで個性の意味を履き違えた厄介者が紛れ込んでいたとは。
教師の間でも、その生徒の存在は完全に想定外だったらしい。
しかも、彼女は選抜クラスであるというのだから、これは何かの間違いだと現実を受け止められない教師もいたようで。
風の便りで、その生徒が"二色奏向"という名前であることを知った。にわかには信じ難い内容だった。
神坂夕莉の知っている二色奏向は、学院を首席で入学した非凡な人だったのだから。
夕莉が聖煌入試の順位を知ったのは、合格発表があった一週間後、学院からとある連絡がきた時のことだった。
入学式で行われる新入生代表の挨拶について、首席の子が辞退したので代わりにお願いしたいと。そこで、自分は次席だったのだと悟った。
これまであらゆる分野において、トップの座を明け渡したことはなかった。
運動会の徒競走でも、美術の絵画コンクールでも、無論、定期テストや模試さえも。
そんな中、人生で初めて首位を陥落された現実に、悔恨の情を抱いたと同時に、彼女に対してうっすらと興味も生まれた。
新入生代表の挨拶の件でチラッとあがった、首席の名前。
どこにでもいるような、ありきたりな名前ではないので、その子と問題児は同一人物なのだろうと結論付ける。
進学してから成績が落ちるという話は珍しくないが、ここまで素行不良な生徒だとは思わなかった。
それが彼女の実態なのだろうか。元々毛程しかなかった興味は、すぐに薄れた。
それからしばらくの時が経ち、杏華から付き人の話を持ち掛けられた。
記憶から消し去られていた、例の人物の名前を聞かされる。世間のなんと狭いことか。
しかし、杏華の口から語られる二色奏向の人物像は、これまた学院で流れている噂と異なる。
彼女は一体いくつの顔を持っているのか。
正体の掴めない謎の人物――自分とは関わることのない相手だと見切りをつけ、杏華に付き人の話はもうやめてと念を押した。
特進クラスに所属する夕莉は、他クラスより早めに訪れた春休みのとある1日を使って、広場へ散歩をしに出掛けた。
二年ほど前から、ふとした時に思い出しては気分転換に寄っている場所だ。
ここへ来ると、当時の記憶が鮮明に蘇る。
夕莉にとっては間違いなく心傷を負うほどの辛い出来事だったが、反面、強く心に残るような不思議な巡り合いもあった。
人生で初めて出会った、財閥のお嬢様としてではなく、"神坂夕莉"として接してくれた少女。
名前も知らないその女の子と、もしかしたら再会できるかもしれないという淡い期待も抱きながら、自然に囲まれた広場を一人歩く。
宛てもなく、ただ広場の景色と時折吹くそよ風を堪能しながら散策していると、視界の端で困ったように木を見上げている二人の親子が映った。
フリスビーが木の枝に引っ掛かってしまったようだ。すぐさま彼らのもとへ歩み寄り、それを取ってあげることにした。
早速木によじ登ろうと足を掛けた時、誰かが夕莉の腕を掴んだ。全く予期していなかった不意の接触に、全身に悪寒が走る。
反射的に手を振り払おうとして相手の顔が視界に入った瞬間、驚愕に目を見開いた。
毛先にかけて緩やかにはねているミディアムの茶色がかった金髪。猫のように大きくも突き刺すような力強さを孕む、澄んだ
総じて凛々しいと形容するに相応しい端正な顔立ちの少女は、ほのかに焦りを滲ませた表情を夕莉に向けている。
大人びた雰囲気をまといながらもその面影は変わらないままだった。
いつかまた会いたいと願っていたあの時の少女が、目の前にいる。
しかし、相手に再会を懐かしむような様子はなかった。
――そうか。きっと彼女は、自分のことを覚えていない。
瞬時にそう悟った夕莉は、胸中に芽生えたほんの微かな感動を押し殺し、喜びを浮かべかけた表情すらも消した。
木から飛び降りた夕莉を抱きかかえたまま、気絶してしまった少女。
眠るように目を閉じている彼女の顔を見たら、あの時の情景が脳裏を過ぎり気が気でなかった。
また彼女は黙って姿を消してしまうのだろうか。そう思うと正常な思考が働かなくなり、気付けば電話で杏華に助けを求めていた。
家の専属医師に診てもらい、少女の無事が確認できるまで自宅の寝床を貸すことになった。
彼女が眠っている間、杏華から聞かされたのは驚愕の事実だった。
あの金髪の少女が、杏華の行きつけの喫茶店で働いている店員であり、聖煌学院に通っている二色奏向だと。
しかし、彼女の正体を知っても不思議と失望することはなかった。
学院を首席で入学したことも、素行不良で悪評が立っていることも、全て人伝で聞いた外面に過ぎない。
噂と実物、天秤にかけるまでもなく、夕莉は自身の記憶の中にある奏向が本当の彼女なのだと信じた。
それに、初めて出会ったあの時から何一つ変わっていない。
吸い込まれそうなほど真っ直ぐな瞳も、耳心地の良い芯のある透き通った声も、無邪気な子どものように綻ばせる笑顔も。
そして、良い意味で他人に気を遣わないような接し方も。
広場で対話したのは僅かな時間だったが、あの時の彼女が確かに目の前に存在していた。
付き人を雇うことについて、最後にもう一度考え直してほしいと杏華から頼まれる。
そして夕莉は、賭けに出た。奏向を自分の側に置いてみようと。
昔から夕莉に近付く人は皆、下心を持つ者ばかりだった。
財閥のお嬢様だから、絶世の美女だから。家柄や美貌目当てで接してくるばかりで、誰も内面を見ようとしない。
自ら心を開こうとしても、自分たちとは違う世界に生きる人間だからと敬遠される。
そんな中、付き人の仕事が同情によって与えられた恩恵ならば断ると明言した奏向は、やはり他の人たちとは違うのだと改めて思い知らされた。
――もっと試してみたい。
果たして彼女は、どこまで自我を貫くことができるのか。
無意識のうちに、夕莉は奏向の唇に自分のそれを重ねようとした。
他人の体が接触するのは苦手なはずなのに、なぜか彼女に対しては何も感じない。
しばらく放心したように固まる奏向の顔は、眉間にシワを寄せることはあっても、頬を赤らめることはなかった。
それどころか、唇が触れてしまったことよりも、夕莉の言葉を鵜呑みにして雇用の理由について悩んでいるようだった。
ある意味予想外の反応だった。
けれど、そんな奏向の姿を前に夕莉は、自分の決断が間違っていなかったのだと改めて思う。彼女ならきっと――。
雇用主と労働者、それ以上の関係になってしまうことを恐れる必要がない。
仕事に私情は持ち込まないと言った奏向の言葉を完全に信じたわけではないが、実現してくれる可能性はある。
彼女があの時の出来事や自分のことを覚えていなくとも、夕莉は構わなかった。
これは、同情ではなく命を救ってくれたことに対する恩返し。そして、自分の身を守るために利用する手段だ。
癖のない字体で書かれた"二色奏向"というサインから目を離し、夕莉は雇用契約書を鍵付きの引き出しにそっとしまった。
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