第16話 契約成立
「無害……むがい…………害が、ない……つまり……?」
疑問が解決したような、していないような……。
スッキリしない心持ちのまま、眉根を寄せてソファの肘掛けに頬杖をつきながらしばらく放心状態で呟いていると、神坂さんが淡々と補足し始めた。
「私は、あなたに付き人として働いてもらいたい。そしてあなたは、高給の働き口を求めている。これはあくまで、利害の一致による契約よ。結果的にこの契約があなたの抱える問題への救済になるとしても、そこに一切こちらの私情は挟まれていないということだけは覚えておいて」
「……はい」
ほんと、怖いくらい冷静だな……。自分からあんな行動をとっておいて、何事もなかったかのように振る舞えるその神経を疑う。
いかにも精神的に優位に立っていそうな彼女の態度を見ていたら、悶々としている自分がバカらしくなってきた。
あの出来事は一旦、いや永久に記憶から抹消しよう。
「それで、あなたはどうするの?」
「どうって……ああ、雇用について、ね」
まだ正式に返事をしていなかった。頬杖を直し、姿勢を正す。
高校生がやるにしてはあまりに高額すぎる、時給1万円のアルバイト。
その内容は、財閥のお嬢様のお世話係という普通ではない仕事で、今まで経験したアルバイト史上最も怪しくて不安しかないけど、私は決めた。
「引き受けるよ。――神坂さんの下で、働かせてください」
一番は、1円分でも多く稼いで家計を助けるため。あとは、結局理由はよくわからなかったけど、私を雇用したいと決断してくれた神坂さんや杏華さんの思いに応えてあげるのも悪くはないと思った。
雇用主が同級生なんて変な感じだけど、これは金銭が絡んだ立派な契約であり、最低限の義理は通すべきだ。私は神坂さんに向かって、深々と頭を下げた。
「契約成立ね」
初めて彼女の穏やかな声を耳にしたような気がした。咄嗟に頭を上げるも、目の前に座っていたはずの神坂さんがいない。
と思ったら、近くのデスクに置かれていた書類を手に取り、再びこちらに戻って来た。
ローテーブルに差し出されたのは、全く同じ内容の2枚の雇用契約書とボールペン。
契約書に記載されている事項は、先週杏華さんから見せてもらった時に全て記憶してある。改めて内容に目を通し、一言一句変わりないことを確認した。
神坂さんのサインの下に、私の名前を記入する。判子は手元になかったので拇印を押した。
「確かに、受け取りました」
契約書の片方は雇用主である神坂さんが、もう片方は労働者である私が控えることに。
……とうとう、なってしまった。彼女のお世話係に。
正直、全く実感が湧かない。
普通のアルバイトとは毛色の違う業務にあまりピンときていないのもあるけど、やはり並外れた賃金に、未だ懐疑心を捨てられないからなのかもしれない。
こればかりは、実際に振り込まれた額をこの目で確かめない限り、疑い続けることになるだろう。
「早速だけど、契約内容についてもう一度簡単に確認しておきましょう」
神坂さんは髪を耳にかけながら、片手に持つ契約書に視線を落とす。
「雇用期間は来月の4月1日から一年間で、場合によっては契約更新もあり得るわ。労働日数は平日の週5日、勤務時間は7時から19時まで。ただし、実働時間は法定の上限まで。賃金は時間給で1万円。――ここまでで問題はないわね」
「はい全く問題ございません」
「…………」
ジト目で睨まれたような気もするけど、無視。既に契約内容は確認済みとはいえ、何度見ても破格の待遇に内心笑いが込み上げてくる。
土日休みというだけでも充分ありがたい。
「……平日の7時から19時の意味、わかっているわよね? 当然、私はその時間帯学院にいる。私の付き人になるということは、基本的に私の側を片時も離れてはいけないということよ」
もちろんわかっている、と頷こうとして、あることが頭を過った。
彼女の言うことはつまり、私も一緒に学院へ通うということ。
私は最近まで、学院を退学するつもりでいた。その理由は、特待生資格を取り消されて学費が払えなくなるから。
けれど、時給1万円のアルバイトを始めることが決まった今、家計の足しになるだけではなく学費の納入も不可能ではなくなった。
「……あのさ。稼いだお金は、自由に使ってもいいんだよね」
「……? 当たり前でしょう。労働者の給与の使い道まで、こちらが口出しする権利はないわ」
「うん、わかった」
退学、する必要がなくなったんだ。
あんなに悩んでいた問題だったのに、まさかこんな形で解決するとは。
もう二度と、学校には行けないと思っていた。でも、これからも通い続けていいんだ――。
「では、続いて仕事内容についてだけれど、まずはこれを」
あらかじめテーブルに置かれていた、契約書とは別の書類を提示される。そこには『付き人の六ヶ条』と書かれていた。
「原則、仕事内容は契約書に書いてある通りだけど、それに加えてこの規則も厳守してもらう」
心なしか眼光が鋭く見える神坂さんの強い眼差しに気圧され、その書類を手に取ってみる。シンプルに六つの条項が箇条書きで記されていた。
一、命令には必ず服従する
二、不快にさせる言動をしない
三、非常時を除いて業務時間外は接触禁止
四、許可なく私室に入らない
五、体に触れない
六、特別な感情を抱かない
「異議あり」
「異論は認めないわ」
「いや、聞いて?」
最初の四つはまあ、わかる。
お世話係として主人のことを第一に考えた規則だし、『命令には必ず服従』というのがどこまでのことを強要されるのか些か不安ではあるけど、時給の高さを考えれば許容範囲内だ。これだけなら遵守しようと思える。
が、最後の二つは──何これ?
もちろん、言葉自体の意味は理解しているけど、果たしてそれが本当に厳守すべき条項に値するのか、甚だ疑問が残る。
「『体に触れない』って神坂さんの体に、だよね。手とか腕とかも? 不慮の事故で故意じゃなくてもダメってこと?」
「ええ。いかなる事情があったとしても、髪の毛一本たりとも触れることは許されないわ。――それとも、どうしても私に触れたい
「……自尊心の塊かよ」
そんな動機はあいにく持ち合わせていない。しかしその理屈でいったら、満員電車で他の乗客にぶつかった拍子で肩が触れてもアウトだし、強風で靡いた髪が私の顔に当たってもアウトになる。
……半径二メートル以内には近付くなと?
……待てよ。
抹消したはずの記憶が蘇る。
「さっき私にキス──」
「私からあなたに触れるのはいいけど、あなたからはだめ」
「なんだその屁理屈!」
「それに、あれは契約成立前だから何の問題もないわ」
理不尽な言い訳に頭を抱える。
側を離れてはいけないのに、体に触れるのは禁止。……距離感むず。
今思えば、広場で木から飛び降りた神坂さんを抱えた時も体に触れたことになるけど、あの時点では他人同士だったからセーフってこと?
……とりあえず、不平不満を漏らしてもこの堅物そうなお嬢様は聞く耳を持たなそうだし、百歩譲って受け入れよう。
大体、普通に生活していれば他人に触れるなんてことは起こらないし、意識していればどうとでもなる。
これ以上反論したら、本当に神坂さんの体に触れたいと思っている変態だと勘違いされかねない。
「……で、『特別な感情を抱かない』っていうのは?」
「そのままの意味よ。私たちは雇用主と労働者、それ以上でもそれ以下でもない。お互いに対して、その関係性が危ぶまれるような情を抱いてはならないということ」
「要するにストライキとか、言葉の通りだとすれば恋愛感情、とか?」
「……ええ」
神坂さんは歯切れが悪そうに視線を逸らす。
特別な感情といえば、そう解釈する人がほとんどだろう。私が神坂さんに対して、恋愛感情を抱いてはならないということか。
付き人が守るべき条項になぜ色恋の件をぶっ込んだのか謎だし、一体何を危惧しているのか。
「正直、これが一番よくわかんないんだけど。だってあり得ないし」
「……何が?」
「私、お金にしか興味ないから」
確かに、職場恋愛自体は珍しくない。
バイトと社員、先輩と後輩など、実際にバイト先でカップルが誕生している場面を何度か目撃したことはある。
けれど、仕事に集中できなくなるとか、公私混同してしまうとか、魅惑的な行為に反してリスクやトラブルが付きものだ。
神坂さんは、恋愛に
「安心して。私は、仕事に私情を持ち込んだりしない」
「……そう」
自信満々に明言したけど、素っ気なく顔を背けられてしまった。
その態度は信じてないな? 仕方ない。今の私と彼女の信頼関係はゼロに等しい。これからの行動で示していけば、私が言ったことの信憑性の高さが証明されるはず。
「その言葉、忘れないでね」
真剣な目つきで釘を刺される。
含み笑いで返してやった。
「……ちなみに、一つでも守れなければクビだから」
「え」
かくして私は、財閥のご令嬢、神坂夕莉のお世話係もとい付き人として働くことになった。
今回の面接を通しても、彼女のことは何一つわからず終いで。
むしろ謎ばかりが増えてミステリアスなことこの上ないけど、これから円満な主従関係を築いていくために、雇用主である彼女の内面を少しずつでも知っていけたらと思う。
新しいアルバイトと、夢見ていた学院生活。ここからようやく始まる私の青春は、きっと波瀾万丈になるかもしれない――。
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《第1章 あとがき》
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