第15話 面接(2)
「……理由、か。あんたは、私が素行不良になった原因を知ってるでしょ」
私のことを知らない人ならば、首席から落ちこぼれになってしまった理由や経緯がある、なんて考えもしないはず。
悪い評判というのは、良い評判よりも周知されやすい。
きっと、風貌も相俟って私のことを好意的に見ている人はほとんどいないだろう。
私が首席で合格したという情報をどこで入手したのかは知らないけれど、悪いイメージが先行している中で、実は元から問題児だったわけではないのではと、わざわざ私に善良な面を見出そうとする気の優しい人なんているだろうか。
それと、なぜ欠席や早退が常習化したのか、その根本的な理由を私は誰にも話していない。
ただ一人、杏華さんを除いて。
彼女が私を神坂さんの付き人にしたいと考えていたのなら、雇用主である神坂さんに私の事情を話した可能性は充分あり得る。
親が多額の借金を抱えていて、極貧生活の中で少しでも家計の足しにするため、ひたすらアルバイトに打ち込む生活。
いくら家庭の問題とはいえ、これまでの素行や学業をなおざりにしてきたことを正当化するつもりはない。
誰にも相談せず、全て独断で行動した結果なのだから。
このことを誰彼構わず打ち明けてもいいとはもちろん思っていないし、杏華さんが他人の抱えている悩みを軽率に口外するような人だとも思っていない。
もし話すとすれば、よほど信頼の置ける相手だけだろう。
けれど、その相手が私にとっても信頼に足る者かどうかは、一概には言えない。
「……仮にあなたの事情を私が把握していたとして、あなたに何か不都合があるかしら」
「んー。不都合で言えば、ない。ただ、その答えは"知っている"と解釈するけど。――だとしたら、私をあんたのお世話係にしようとした意図がなんとなくわかっちゃったような気がして」
私にはお金が必要で、アルバイトをいくつ掛け持ちしても働き足りないくらいお金に飢えている。
そして、貧乏のせいで退学せざるを得ないという事情すらも知っているのだとすれば――。
「推薦したのは杏華さん。で、最終的に私を雇用したいと決めたのは神坂さん? まあ、そこは何でもいいわ。――改めて聞くけど、どうして私を雇おうと思った?」
私は確かに悩んでいた。
学費が払えなくなるから学院を退学しようと考えていたことも、本心ではそうしたくないと願っていたことも。
でも、だからといってそれを誰かに解決してほしいなんて他力本願な期待を抱いたつもりは微塵もなかった。
世の中には、いくら努力しても報われないことがある。いくら切望しても手に入らないものがある。
だから仕方ないと諦観の意味も含め、未練を断ち切ろうとして出た心の声を、杏華さんがどう受け止めたのかはわからない。
けれどもし、そんな私を哀れに思って今回の話を持ちかけたのだとしたら、それは極めて心外だ。
お金に困っている。だから破格の時給で働かせてあげようと思った。
そんな風に考えていたのだとしたら――。
「もし、あなたが思っているような理由だったとしたらどうするつもり?」
「この件はなかったことにしてほしい」
同情で与えられたお金なんてさらに惨めになるだけで、何の価値もない。
「最初、雇用の話を聞いた時はこんな美味しい話あるはずないと思った。でも、だからこそ杏華さんが本当に私を信頼して任せようとしてくれているなら、引き受けるつもりでいた。それが、信頼でも何でもないただの同情で勧められたものだとしたら、話は別よ。私情によって作り上げられた環境の中で得たお金なら、私はいらない」
こんな寡欲な考え方では、いつまで経っても貧窮から抜け出せないことくらいわかっている。今さらになって稼ぐ手段を選んでいる場合ではないことも。
それでも同情を頑なに拒んでしまうのは、貧乏であることを可哀想だと思われたくないから。
――思い知らされる。
他人の優しさに触れるたびに、私は誰かの助けがなければ生きていけないのかと。
「……仕事に対して誠実なのね」
誰にも聞こえないような声量でそう呟いた後、神坂さんはわかりやすくため息を吐いた。
「情けであなたに手を差し伸べたとでも?」
注視していないと気付かないほどの小さな動きで、彼女は眉間にシワを寄せた。
その反論は、明らかに事情を知っているゆえの言葉だった。
だが、その眼差しに憐情はまるでなく、むしろ不快感すら抱いていそうな雰囲気を纏っている。
情けではない、か。それ以外に理由があるのなら、ぜひとも教えていただきたい。
彼女はどんな言い分を聞かせてくれるのだろう。
「……杏華からあなたのことを初めて聞かされたのは、半年ほど前だった。行きつけの喫茶店で、よく話し相手になってくれる店員がいると。その時は大して気に留めなかったけれど、程なくして、杏華は私の付き人をその人に任せてみたいと言い出した。聖煌学院に通っているというその店員の名前を聞いて、まさかと思ったわ。噂になっているあの問題児と同一人物だったなんて、正直信じられなかった」
先日のカフェで私が悩みを告白するまで、杏華さんは私が素行不良だとは知らなかった。ということは、喫茶店での私を見て、付き人を任せたいと判断したのか。
けれど、私の名前を知っていた神坂さんからすれば、学院内で悪い評判が立っている生徒を、自分の側に置きたいと思わないのは当然だろう。
「もちろん私は反対した。当時は付き人自体を雇うつもりはなかったから、あなたが私と同じ学院に通っていると知りながら、わざわざ顔を確認するようなこともしなかった。そのまま時が過ぎて、あなたを付き人にするという話が白紙になりかけた時、広場であなたと出会った」
広場での出来事を思い出すかのように、神坂さんは遠い目で窓の外を見つめる。
「その時に、杏華から教えられたの。あなたが二色奏向だと。そして、あなたの事情もそこで知った」
おそらく、私が眠っていた間にそのやりとりがあったに違いない。
そしてこの時点で、神坂さんは決断していた。私を雇用することを。
「あなたは、付き人という仕事を勧められたのは同情のためと思っているようだけれど――はっきり言って、私はあなたにそんな感情を抱いたことは一度もないわ」
「…………」
度肝を抜かれたようだった。
驚愕に見開いた目で、平然と断言した神坂さんを見据える。彼女もまた、目を逸らすことなく私を正面から直視していた。
……そっか。
そんな目で主張されたら、同情ではなかったんだと認めるしかないじゃん。
そもそも、杏華さんが神坂さんに付き人云々について初めて話したのは、カフェでの出来事より前だったんだ。
睨めっこに負けた私は、吐息と共に苦笑を浮かべて頭を掻いた。
「だったら、なおさらわからないな。付き人を雇うつもりのなかったあんたが、どういう心境の変化で契約書にサインしたの」
「あなたの言う通り、最終的に雇用すると判断を下したのは私よ。
……雇用主が敢えて採用理由を明かす必要はないと思うけれど、どうしても納得のいかないあなたのために、教えてあげる」
神坂さんはおもむろにソファから立ち上がり、私の前に歩み寄る。
じっと私を見下ろす、寸分の感情すら見えない冷たい瞳。
一体何をする気なのかと疑問を抱く暇もなく、前屈みになった彼女の顔がすぐ目の前に接近してきた。
思わず後退りしようとして、それでも逃すまいと押し倒す勢いで迫られる。
ソファの背もたれまで追い詰められたのは一瞬だった。
神坂さんの両手が私の顔のすぐ横を突き、完全に退路を塞がれる。
逃げ場のないソファに座っている私に、彼女が覆い被さっているという危ない構図ができあがってしまった。
垂れてくる彼女のさらさらとした髪が私の頬を滑り、ふわっと漂う甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ちょ……神坂さ……」
「あなたは、私にとって――」
彼女の華奢な指先が、私の顎を優しく持ち上げる。お互いの吐息がかかりそうな、鼻先が触れ合いそうな間隔。
至近距離で視線が絡み合い、何かに惹きつけられているようで目が離せない。
私の目を見つめていた眼差しはやがて、下方へ移動していく。
その視線の先がどこなのかを察してしまった瞬間、ドクンと心臓が大きく脈打った。
冷や汗がじんわりと滲む。
……まずい。
何でこんな状況になっているのかさっぱりわからないけど、とにかくまずい。
神坂さんを押し退けるべきなのに、なぜか全く体が思うように動いてくれない。
固まるな私……! このままだと――。
こちらの葛藤などつゆ知らず、彼女は首をそっと傾げ、水晶のように透明感のある二つの瞳が狙う先へと、さらに距離を縮めてきた。
私の唇と、彼女の唇。
すでに触れ合っているのではないかと錯覚するほどの生暖かい熱を微かに感じる中、静かに囁く声が理性を掻き乱す。
「無害だと思ったから」
感情という感情を全て排除したかのような、無機質な声。
まるで耳元に息を吹きかけられたような得体の知れないゾクゾクとした感覚が、背筋を這った。
その原因は、およそ人が発する声ではないあまりに冷めた音吐に、動揺したからだけではない。
唇の先に残る柔らかな感触の余韻。
寸止めしたかと思われた彼女の唇が、発声と同時に動いたその弾みで、私のものと確かに重なったから――。
「っ……!?」
常軌を逸した彼女の言動に、頭の思考回路が爆発寸前だった。
私はただ、雇用の理由を聞いただけ。なのに、何でキスされそうに……いや、明らかに触れていた。
衰えた脳みそで極限に思考を巡らせるも、その答えを導き出せる気配がまるでない。
これは、どんなトンチを利かせたら解ける問題なの……?
意味深すぎる回答と激しくなる動悸に困惑し、私は口元を抑える。
彼女の言葉の真意を測りかねるまま、胸中のモヤモヤを残して白旗をあげた。
「……ごめん、やっぱわかんない」
この際、同情ではないということが確認できただけでも良しとする……か? もうあれこれ考えるのは疲れた。
「……そういうところよ」
いつの間にか向かいのソファに戻っていた神坂さんは、またもや含みのある言葉を残して再び窓の外へ顔を向けた。
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