第80話 崩れる平穏

 むつ姉の『指輪事件』を受けて、俺と荻野はむつ姉に見つからないうちに、早番で引継ぎ準備をしていた店長に泣きついた。


「美鈴さぁ~ん! 六美さんが、六美さんがぁ……!」


 事の顛末を話すと、美鈴店長は「あははぁ!」と快活に笑う。


「むっちゃんも、もうそういう歳だもんねぇ。そろそろ彼氏のひとりでも! そっかぁ、ようやく重い腰をあげたのかぁ!」


 ……やべぇ、どうしよう。フツーの人の反応だ。


 むつ姉の『恋』を前向きに応援してくれる、俺たちとは色んな意味での別勢力。


「むっちゃん、ずーっと『心に忘れられない人がいる』なんて言ってたけど、その様子だと吹っ切れたんだねぇ。よかった。むっちゃんはあんなに美人でいい子なんだもん。その気になれば、彼氏なんてすぐにできるよ!」


「あああああ……!」


(その『忘れられない人』……もしかしなくても俺だぁ!)


「やっぱり、そうですよねぇ!?」


「え。なに。なんでそんな、ふたりともこの世の終わりみたいな顔してんの?」


 そんな俺たちの気持ちなんて露知らず、美鈴さんは「今日は暑いし、ヘルプてつだいで来てくれてたエリアマネージャーとビールでも飲んで帰るかぁ!」と上機嫌に退勤していった。

 入れ替わるように、制服姿に着替えたむつ姉が、おっぱいをたわわに揺らして店頭に出てくる。


「お待たせ~。ふたりとも、今日はよろしくねぇ!」


「「はぁ~い……」」


「あれぇ~? 元気なくなくな~い?」


「ないですぅ~……六美さんがぎゅーって抱き締めてくれたら、元気でますぅ……」


「も~う、しょうがないなぁ! はい! ぎゅぅう~!」


「「!!」」


 まさか、本当にしてくれるとは思っていなかったのだろう。

 冗談のつもりで言った荻野は目を見開き、「はわゎ、むちゅみさん……」なんて。瞳を震わせて、見るからに心臓をバクバクさせていた。


(荻野……いいなぁ……)


 内心で羨ましさに指を咥えつつ、目の前で繰り広げられる百合ん百合んな光景に、俺の心の百合豚オジサンが、「眼福。謝謝シェイシェイ」と合掌した。

 すると、むつ姉は荻野をいい子いい子したまま、こちらをちらりと見やる。


「ゆっきぃも……する?」


(……!)


「いーっぱい込めてあげるよ。愛♡情♡」


(はわわ、むちゅ姉……!)


 ふらふらと、誘われるように腕を広げて近寄ると、むつ姉ハグを終えて未だ名残惜しそうな荻野に、足を思い切り踏まれた。


 『すっこんでろ、彼女モチが!』


 蒼い眼光に射殺され、俺はおずおずと手を引っ込める。

 そんなこんなで、今日も平和にアイス屋業務に勤しんでいると、怒涛の来客を終えて、あっという間に閉店時間となってしまった。

 今日はたまたまかもしれないが、坂巻も灯花も加賀美さんも来なかった。

 来ても、今日は忙しくてあまり話せなかっただろうから、丁度いいっちゃ丁度いい。


 しかし――


 お店の閉まる五分前。館内に『蛍の光』のオルゴールが流れ始めた頃、あるひとりの男性客が来店した。

 会社帰りのサラリーマンだろうか。スーツ姿の、それなりにガタイのいい長身の男だ。


 男はすたすたと店先にやってくると、背広の内ポケットからおもむろにサングラスを取り出して、つける。


「……?」


 ――「なんか、おかしいな」。


 店にいた三人がそう直感した瞬間。

 男は、まるで営業の名刺でも取り出すような自然な動きで、スーツの胸元から一本の包丁を取り出した。


「「「!!」」」


 ヤバイ人ほど、普通の顔して世に紛れてるってのは、本当なんだな。

 素知らぬ顔して小脇に挟んでたっぽい包丁を、男は、レジの締め作業をしていた荻野に向かって突き出した。


「金を出せ」

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