第75話 暗い空の中で

 マステマとエヴァンス。

 2人の合わさった拳が大気を揺らし、廊下のガラスを全てぶち割ってしまった。


 ガラス片が床に散らばる。


 エヴァンスの拳が弾かれ、後ろへと飛んだ。

 マステマは、拳に僅かに残る衝撃を不思議そうに見ていた。


「流石というべきか……進化した私ですら、まだ届かんか」


 エヴァンスは片眼鏡の位置を直し、両手を握る。

 筋肉が軋みを上げ、さらに盛り上がる。


「力が漲る。おお、これだ。これこそが私の求めていたもの」


 エヴァンスへと流れていく魔力にマステマが触れようとするが、触れず回収できない。

 何かしらの細工がされているようだ。


「ふふ、不思議でしょう、マステマ君」


 マステマが魔力からエヴァンスに視線を戻した。


「そんな姿になりたかったの?」

「当然です」


 マステマの問いに、エヴァンスは不思議そうに頭を傾げた。


 人間は優れた生き物だ、と今のマステマは思っている。

 確かに個体としては弱いが、文化を生み出すその発想や知性は驚嘆に値する。


 それを生み出す人の手もまた素晴らしい。

 アーネラがマステマをその手で撫でる際、マステマはえもいわれぬ趣を感じるのだ。


 アハバインは抱き枕に丁度いい大きさだし。


 地獄に居た時に感じた暇はもう感じない。それ位には過ごしやすいのだ。

 それに引き換え、目の前のエヴァンスの姿は歪だった。

 マステマからすれば人間の姿を捨てる意味が理解できない。


 そもそも、自ら強くなる必要があるのだろうか?


 エヴァンスは自らの姿を進化と言った。

 だが、その先にあるものが何かはマステマにはとても分からなかった。


「ここは狭い。外に出ましょう」


 そう言ってエヴァンスは天井を吹き飛ばして空に浮く。

 マステマが翼を羽ばたかせて追いかける。


 夜は更に深まり、月だけがマステマを照らした。


 エヴァンスが殴りかかってくる。

 マステマはそれを回避して力を込めて殴り返す。


 殴る度にエヴァンスを吹き飛ばすのだが、ダメージはすぐに回復する。


 そのままマステマが殴り飛ばす。殴った衝撃でエヴァンスが空を滑空するように吹き飛び、それを追いかけて更に殴る。


 エヴァンスの反撃を防御すると、マステマが大きく飛ばされたので羽で勢いを殺す。


 エヴァンスは時間が増す毎に、確かに力を増していた。

 少しずつ今のマステマの力に迫ってきている。


 その感覚が嬉しいのだろう。

 エヴァンスは決して教室では見せない、歪んだ笑みを見せる。


「上級悪魔といえど、ふふ、あと少し。倒した後はどうしてやりましょうか……」


 マステマにとってエヴァンスは特に興味はない人物だ。

 講義の内容も退屈だった。


 だが、別に嫌いなわけではなかった。

 ゼリーを分けても良いと思う程度には。


 しかし今のエヴァンスは、ただひたすら醜かった。

 地獄にいた下品な最下層の悪魔と何も変わらない。


 人間が悪魔になったとして、その力に飲み込まれない筈がない。

 エヴァンスの目から知性をもう感じない。


「はは、はははははは」


 エヴァンスが今のマステマの力に追いついて来た。

 ぶつかった拳に僅かだが痛みがある。


 マステマの防御を抜いたという事は、悪魔の次元に到達したのだろう。


 だが、そこがエヴァンスの限界だった。

 肥大化した筋肉が耐え切れず、壊死していく。

 即座に壊死した部分が再生する。しかし魔力が流れ込む度にその繰り返しだ。


 器が限界なのは、マステマから見ても明らかだった。


 アハバインとエヴァンスの差はなんなのだろうか。


 マステマは考える。

 アハバインを始めて見た時、ハッキリ言って弱いと思った。


 微弱な魔力に、脆弱な体。

 撫でれば死ぬほどに弱い。


 天使の力を宿しても、驚きはしたもののそれでもマステマには及ばない。


 下級天使など、上級悪魔から見れば脅威ではない。


 しかしあらゆる手段、準備、方法を用いてその度にマステマの想定を超えてきた。


 そして勝利したのはアハバインだった。


 人間に興味を持ったのはそれからだ。

 そう、純粋な力以外の長所こそ人間の強みである。

 マステマが今、最も得たい能力でもある。


 その長所を捨てて、多少の力を手に入れる事にマステマはとても賛同できなかった。


 恐らく、本来は人の知性を保持したまま悪魔になる積もりだったのだろう。

 その結果がこれだ。ルコラと結局は大差がない。


「それは思い上がりだよ……」


 人間に地獄の魔力は醜悪すぎるのだ。

 人の形を変え、思考が歪む程度には。


 エヴァンスはもう喋らない。

 地獄の魔力に飲み込まれたのだろう。


 トレードマークだった片眼鏡が地面に落ちる。


 エヴァンスは筋肉を壊死させながら、魔力で無理やり回復させて更なる体の肥大化を行う。


 人間であれば痛みで発狂する行いだが、もう自我もなさそうだ。

 ただひたすらに暴れ貪るだけの存在になり下がった。


 このまま放置はできない。


 力だけなら弱体化しているマステマに準ずるだけはあるので面倒だ。

 地獄の火で焼いても、地獄からの魔力を絶たない限り燃えながら再生するだろう。


「勿体ないけど」


 そう言ってマステマは茨の杖を取り出す。

 これは優れた魔力タンクになってくれた。


 日々生成した魔力を茨の杖に蓄えさせることで、魔力を全快できないマステマの外部魔力タンクにしていたのだ。


 こういう工夫は人間から学んだ。

 無いものは補えばよい。


 マステマが茨の杖を握り、起動させる。

 既に茨の王が復活するだけの魔力は溜まっていた。


 茨の王がマステマの後ろに出現する。

 全身に茨と薄い布を纏わせる美しい女だ。


 茨の王は既にマステマの支配下にある。彼女から魔力を受け取る。

 少しだけ茨の王が渋ったので、強引に奪い取った。


 マステマの魔力が全快する。

 あまりの魔力に、周囲の空間が歪んだ。


 右手の手のひらを何度か開き、閉じる。

 確かめる様に。


「うん、久しぶりだな」


 全身に回る魔力により、全盛期の力に戻った。

 無論使えば減るし、また溜めなおさなくてはならない。


 飛び掛かり、殴ってきたエヴァンスの右腕を払う。

 それだけでエヴァンスの右半身が消し飛んだ。


 脆い。天使の力を持ったアハバインの方が堅かった。


 エヴァンスの右腕が再生する。

 この調子では、体が一部でも残っていれば再生するだろう。


 マステマは右手をエヴァンスに向けて開いた。


「ばいばい、エヴァンス先生」


 マステマの右手が閉じる。

 その瞬間エヴァンスの周囲の空間が圧縮された。


 恐らく、エヴァンスはたとえ意識があっても、何が起きたのかすら分からなかっただろう。

 一瞬だけ血肉が砕ける音が真っ暗な空に響き、エヴァンスの姿が消えた。


 月が照らす暗い魔道学園の空には、マステマの赤い目だけが爛々と光っていた。

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