第60話

『姉さんを叩かないであげて下さい……』


 と、小学生の時に一度だけ目に涙と小さい身体を震わせながらお父さんにお願いした事があります。

 

 僕が物心付いた時からお父さんは姉さんに手を上げていました。最初は頭を叩く程度だったけど歳を重ねていくうちに叩く手はパーからグーへ。叩く箇所も頭以外に顔やお腹周りに増えていった。


『……』


『!?』


 お父さんは吸いかけの煙草をわざわざ消す。煙草と灰皿が擦れる音に震えていた身体は大きく跳ね上がったのを今でも覚えてる。


 お父さんは愛煙家だった。一日に吸う本数は少ないけど、その代わりに一本一本を大切に最後まで吸いきる。例え家族の会話が始まったとしても絶対に煙草の火は消さない。それどころか灰皿に置く事すらしない。そんな人がわざわざ煙草の火を消したのです。


 逆鱗に触れてしまった。そう当時の僕は思いました。でも僕を見ているお父さんの表情に怒りは一切なく、寧ろばつが悪そうにしているお父さんがそこにいました。


『ごめんな?』


『え?』


 当時の僕より幼い子供でもわかるその4文字を僕は生まれて初めて聞いた単語だと錯覚したのを覚えてる。その錯覚が消えるまでに5秒以上掛かったのも。――で、結局それでも僕は自分の耳を疑いました。


 だって初めてだったから。初めてお父さんが僕に謝ったから。しかも本当に申し訳なさそうに。でもだからこそ気づく事が出来た。お父さんは姉さんを嫌っていないって事を。


『お父さんはお姉ちゃんを嫌ってるんじゃ……?』


 と、驚いた僕はつい口を滑らせてずっと思っていた事を口に出してしまう。するとお父さんは滅多に見せない優し気な笑みを浮かべて僕に言います。


『そんなわけないだろ? 我が子を嫌う親は親じゃない。お父さんはお前達二人の父親でいたいから生まれた時から愛してる。これはお父さんが死ぬまで変わらないし、変えないとお前達が生まれた時に誓ってる』


『ならなんで? どうして叩くの?』


 この幼かった僕の問い掛けに、目を伏せ優しく微笑んでいたお父さんの顔に影が落ちる。


父親でごめんな? でもこれは必要な事なんだ。瑠々が間違った成長をして、誰かを傷つける前に……』


『――ごめんなさい』


 まるで自分に言い聞かせているように見えてしまい、幼かった僕は謝罪の言葉を口にした。あんなに辛そうにしているお父さんを見たのは初めてで、それを僕が引き起こしてしまったから。


『あっ――……もう夜も遅い。歯を磨いて寝なさい』


 そう言ってお父さんは伝えようとした言葉を飲み込んで煙草を一本手に取ってそれに火を点けて吸う。僕は伝えようとした言葉が気になりつつも言われた通りに歯を磨きに洗面台へ向かった。

 

 その後ろでお父さんが、


『まずい』


 と、独りぼっちで嘆くのでした。



「へぇ? 本当に来た」


 と、僕――久遠帯々の自宅玄関の佇んで居た一人女子高生の先輩が、途中で運良く拾えたタクシーから降りた僕と二宮先輩に今の言葉を掛ける。


「来ることが分かってんなら話は早い。今すぐ久遠九々を返せ」


 二宮先輩は声に圧を乗せながら女子高生の先輩に詰め寄ると、女子高生の先輩は立ちふさがる事無く寧ろ招き入れる様な仕草を見せた。


「好きにしたら? 私はただ成神先輩から弟が帰ってきたら教えて? って言われて此処に待機させられてただけ」


 そう言って女子高生の先輩は近くの壁に設置されていたインターホンを続けて二回鳴らし、向こうからの返答を待たずに玄関を開けて家の中に入っていきます。


「えっ?」

 

 僕達も自宅に足を踏み入れます。久しく帰ってなかった自宅の廊下には思わず袖で鼻と口を覆ってしまう程の異臭に満ちていました。


「んっ!?」


 いや匂いだけじゃない。空気も異様に冷たくてどんよりと重苦しい。久しぶりに帰ってきた筈なのに、僕はこの家が自宅だと到底認められなかった。見覚えがあるだけの建物と脳が勝手に認識している。


 ――あ、異臭の中にお酒の匂いが混じってる?


「! だ、大丈夫ですか?」


 タクシー内で言われた通りに玄関の鍵を閉め、ふと二宮先輩の表情を伺ってみると顔色が少しばかり赤くなっている。よくよく見てみると首元と手、確認できる素肌は気持ち赤い。火照っている?


「大丈夫……と、言いたいが頭がクラクラしてる。多分この悪臭のせいだ」


 この異臭に耐える為か、二宮先輩の目力がどんどん強くなっていく。そして女子高生の先輩が先に入っていったリビングのドアの前に着く頃には視線だけで赤ん坊を泣かせられるんじゃないかと思うレベルにまで至っていました。


「開けます」


「あぁ」


 自宅だというのに「開けます」はおかしいと思いつつリビングへ繋がるドアを開ける。


「ン”ッ”!?」


「これ、は――ッ」


 ドアを開けた瞬間、廊下に充満していたものとは比べ物にならないレベルの異臭が僕達を襲う。流石のこの異臭に二宮先輩でさえ悲鳴のようなぐぐもった声をあげていた。


「おかえり帯々君。ようやく長い長ーい家出が終わってお姉ちゃんの元に帰ってきてくれたんだね?」


 と、かつて家族皆で食卓を囲んでいた場所に見知らぬ女の人達があられもない姿と状態で座っていて、その中に僕の姉である成神瑠々がいます。


 ――けど、そこにいた姉さんは僕の記憶とは大きくかけ離れていました。

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