第145話 満員電車

 昼飯の後は特に何も起きずに一日を終え、放課後になってすぐに美羽を迎えに行く。


「すまん、美羽は――」

「いるー! 今行くー!」


 教室を覗いた瞬間に、焦ったような声が聞こえた。

 声の方を向くと昨日と同じように女子の一団に捕まっているので、悠斗が来たのを理由に逃げ出すつもりらしい。

 彼女達も昨日のようになりたくないのか、あっさりと美羽を解放した。

 帰り支度を終えてすぐ傍まで来た美羽が、ほんのりと疲れを滲ませた笑みを浮かべる。


「待たせちゃってごめんね」

「こんなの待った内に入らないって。じゃあ帰るか」

「はーい」


 美羽のクラスに挨拶をする人などいないので、すぐに踵を返した。

 あえて挙げるなら哲也くらいだが、美羽と一緒に居る状況で声など掛けられない。

 そもそも教室内を見渡した際に居なかったので、とっくに帰ったのだろう。

 他の生徒達は悠斗が来るのは二回目だからか、何も言ってこなかった。

 とはいえ呆れや興味、それと僅かな嫉妬の視線は向けられていたのだが。


「今日は悠くんが歩きだから、手を繋げるねぇ」


 昇降口で靴に履き替えて美羽と手を繋ぐと、端正な顔がふにゃりと蕩けた。

 そのまま楽しそうに繋いだ手を揺らすので、余程こうして一緒に帰りたかったらしい。

 昨日通学中に気付いた時点で引き返すべきだったと、後悔という名の棘がちくりと悠斗の胸を刺す。


「昨日から電車通学しておけば良かったな。すまん」

「もう。昨日謝ってくれたんだから、気にしないで」

「でも――」


 もう一度頭を下げようとして、美羽が謝罪を求めていないのに気が付いた。

 ならば間違いを犯した悠斗に出来る事は、これからの美羽に喜んでもらう事だ。

 一瞬だけ目を閉じ、思考を切り替える。


「そうだな。じゃあ今日からはずっと一緒だ」

「うん!」

 

 美羽がにへらと溶けるように眉尻を下げ、幸せそうに笑んだ。

 昨日と変わらない帰り道ではあるが、昨日とは違い自転車がないだけで美羽との距離を近く感じる。

 ただ、普段から近い距離に居るせいで、悠斗達の間ではそれ以上会話が続かない。

 それでも心は満たされており、それは美羽も同じなのだろう。嬉しさを滲ませた微笑をしている。

 しかし、それも駅のホームに上がるまでだった。


「……まあ、そりゃそうだよな」

「そっか、悠くんは久しぶりだもんねぇ」

「前は綾香さんの車で送ってもらったからな」


 目の前の凄まじい人混みに、美羽と共に引き攣った笑みを浮かべる。

 以前電車通学をした際は帰りに電車を使わなかったので、帰りの満員電車に乗るのは本当に久しぶりだ。

 覚悟していたとはいえ、ぎゅうぎゅう詰めになるのが見えているので乗る気が失せる。


「毎日美羽はこれに乗ってるんだよな。凄いもんだ」

「朝は座れるからいいんだけどね。……正直、一番辛い所だよ」


 美羽が苦虫を嚙み潰したような表情で重い溜息をついた。

 当然だが、こんな人の多さで座席に座れるはずがない。

 そうなると、美羽にとっては地獄の空間に等しくなる。

 随分前に聞いたが、流されたり押しつぶされても気付いてもらえないのだから。

 ただ、今日からは悠斗も一緒なので、美羽の苦労を多少なりとも和らげる事が出来るはずだ。


「俺にしがみついてたら流されないだろ。それに、上手く行けば美羽が苦しい思いをせずに済むぞ」


 偶には男らしい所を見せたいと胸を張れば、美羽が目を輝かせる。


「本当!? 頼りにしてるね!」

「任せとけ」

「じゃあ早速。えい!」


 自信満々に応えると、美羽が悠斗の腕にしがみついた。

 既に人が多いとはいえ、まだ電車に乗ってすらいない。にも関わらず、悠斗との距離を近付ける美羽が微笑ましくて笑みが零れる。


「そうしてると絶対に離れないもんな」

「確かに、そうだけど、むぅ……」


 先程まで笑顔だったのに、美羽が一瞬で不満そうな顔つきになった。

 しがみつけと言ったのは悠斗ではあるが、美羽は先程まで嬉しそうだったのだ。

 何が美羽を不機嫌にさせたか分からず、首を捻る。


「ん? 何か気になる事でもあったのか?」

「ない。というか、悠くんは私の体に何も感じないんだった。スタイル良い人が羨ましいよぅ……」

「すまん美羽、もう一回頼む」


 美羽が首を振ったので気になった事はないらしいが、呟きが小さすぎたせいで周囲の喧騒けんそうに消され、よく聞こえなかった。

 もう一度と頼んでも、美羽が不服そうに頬を膨らませてつんとそっぽを向く。


「やだ。言わないもん」

「……まあ、それならそれでいいけどさ」


 不機嫌そうであっても美羽は悠斗の腕に身を寄せている。それだけでなく、すりすりと頬を擦り付けてくるのでくっつくのが嫌なのではないのだろう。

 とはいえ、話したくないと言われてしまえばそれ以上は聞けない。

 釈然としないまま時間を潰していると、ようやく悠斗達が待っている電車が来た。


「行くぞ、美羽」

「うん」


 腕にしがみついている美羽と一緒に、多少強引ではあるが車両内へと身を滑らせる。

 美羽とてじゃれあっている場合ではないのを把握しており、とっくに真剣な表情になっていた。

 何とか壁際を確保し、美羽を壁に寄り掛からせて悠斗が美羽の頭上に手を付く。

 考えが上手く実行出来て、ホッと安堵の息を吐き出した。


「これなら美羽のスペースが確保出来るだろ」

「でも、悠くんが大変だよ。大丈夫?」

「全然平気だ。でも他の人に迷惑が掛かるから、多少距離は詰めないといけないけどな。美羽こそ大丈夫か?」


 腕を突っ張ったままでは他の乗客に迷惑だ。詰められる所は出来るだけ詰めなければならない。

 そうなると、必然的に美羽との距離が近くなってしまう。

 背の関係で顔が触れ合う事はないものの、これ以上近付けば胸で美羽を押し潰してしまいそうだ。

 もちろんそんな事はしないが、念の為に尋ねると美羽が心配などないような柔らかい笑みを浮かべる。


「悠くんが頑張ってくれてるから凄く楽だよ。でも、もうちょっと近くても大丈夫かな」

「じゃあ失礼するぞ」


 更に距離を詰め、美羽と密着する。もう美羽は悠斗と壁に挟まれ、身動きが出来なくなってしまった。

 だからなのか、美羽が悠斗の背中へと手を回して胸に寄り掛かってくる。


「……なるほど、満員電車にもこういう利点があるんだね」


 満員電車の中は人の熱気が凄まじく、他の人も近いからか美羽の甘い匂いを感じない。

 例え美羽と身を寄せていても、これでは拷問だ。

 しかし美羽はそう思っていないようで、ぽつりと感心の声を漏らした。


「これ利点なのか?」

「利点だよぉ。私だけの特権かな。贅沢してごめんね?」


 蕩けたような声色からは、本当に嬉しいのが伝わってくる。

 それどころか、これ幸いと胸元に鼻を寄せたり頬ずりしてきた。


「んぅー、さいこう」

「……美羽が満足してるならそれでいいか」


 美羽はあれほど満員電車を嫌がっていたのだ。悠斗と触れ合ってそれが変わったのならいいと、思考を放棄する。

 そうして満員電車に揺られる事四十分。ようやく悠斗達の家の近くの駅に着いた。

 美羽を引っ張り外に出て、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。


「はー! 空気が美味しいな!」

「……もうちょっとあのままが良かったなぁ」


 晴れやかな気持ちの悠斗とは反対に、美羽は沈んだ表情だ。

 電車の中では平気そうだったが、やはり無理をさせていたのではと心配になる。


「大丈夫か? 気分悪くなってないか?」

「う、うん! 全然平気! むしろ満員電車が好きになったよ!」

「は、はぁ……」


 くっつくなら家でも出来るだろうに、満員電車の中でくっついて喜ぶ美羽の感性が分からない。

 これほど一緒に居ても、女性とは分からないものだと改めて実感するのだった。

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