第142話 変わったもの、変わらないもの

「それで、少しは落ち着いたか?」


 自転車を押しつつ、悠斗の服の裾を掴んでいる美羽に問い掛ける。

 まだ完全には調子が戻っていないようで、美羽が僅かに頬を赤らめつつ頷いた。


「うん。やっちゃった事はどうしようもないからね。明日頑張るよ」

「その割には元気がなさそうだな」


 吹っ切れたというよりは思考停止に近いのだろうが、それでも美羽の表情は曇っている。

 今日と同じく明日も大変になるのは確実だが、ずっと引き摺っていても良い事などない。

 心配になって尋ねると、美羽が眉を寄せながら首を振った。


「まあ、別の事の方が心配だからね」

「別の事? 俺に話せる事なら相談に乗るぞ?」

「分かった。なら後で言うね」

「了解だ」


 美羽が後にすると言うなら、ここで問い詰めなくてもいい。

 短く応えて話を流しつつ、今日の学校での出来事をお互いに報告する。


「やっぱり美羽の方も大変だったんだな」

「そういう悠くんこそお疲れ様だよ。お昼一緒に出来なくてごめんね」

「気にすんなって。明日こそ一緒に昼飯を食べような」


 悠斗への陰口は予想していた事だし、美羽に知らせて心配させたくはない。

 気遣ってくれるのは嬉しいものの、これは悠斗が乗り越えなければならない事なのだから。

 笑顔を浮かべて話題をすり変えると、美羽がジッと悠斗を見つめた。

 しかし、すぐに表情を柔らかいものへと変える。


「うん。悠くんが言ってくれたし、明日はちゃんとご飯を食べられるよ」

「なら良かった。ただでさえクラスが違うんだから、こういう時くらい一緒じゃないとな」


 学校での美羽との時間を少しずつ増やせている事を実感し、悠斗の頬が弧を描いた。

 彼氏としての我儘を口にすると、美羽が嬉しそうに顔を綻ばせる。


「その為に悠くんが頑張ってくれたんだからね。本当は休憩時間の度に悠くんの所に行きたいんだけど……」

「まあまあ。付き合ったけど美羽には美羽の友人関係があるんだ。全部を蔑ろにしないでくれ」


 以前から美羽は悠斗を優先したいと言ってくれていたが、恋人となった今でも悠斗の考えは変わらない。

 だからこそ、先程美羽のクラスメイトに歩み寄ったのだ。

 何とか片手で自転車を支え、空いた手で淡い栗色の髪を撫でるが、端正な顔に不満の色が現れた。


「やだ。悠くんとの約束があるって言ったのに行かせてくれなかったんだもん。これからはもっと悠くんを優先しちゃうんだから」

「……変な事にならないようにな」


 美羽の言いたい事も分かるので、強く否定は出来ない。

 嬉しくはあるものの美羽が苦しむ姿は見たくないと、眉を下げてやんわりと釘を刺す。

 言いたい事を言って溜飲りゅういんが下がったのか、美羽の顔が幾分か和らいだ。


「うん。それよりも、こっちを聞きたかったの。……悠くん、大丈夫?」

「俺の方が? 大変なのは一緒だろ?」

「悪口言われてるの、知ってるよ。本当に大丈夫?」

「……何だ、バレてたのか」


 美羽と付き合って一日しか経っていないのに、美羽の耳に入る程に悠斗の悪い噂が広まっているらしい。

 先程強がって美羽に伝えなかった意味がなくなってしまった。

 ままならないものだと大きく肩を落とせば、澄んだ瞳が心配そうに悠斗を見上げる。


「あんなの気にしないでいいからね。悩んじゃ駄目だよ?」

「分かってる。そもそも、美羽と柴田には謝罪済みだからな」

「そうなんだけどね……。というか、私も柴田くんも悠くんを許してるのに、どうしてあんな事を言うんだろう」

「俺が覗いたのは間違いないからな。蓮も言ってたけど、悪い事実を取り上げる方が盛り上がるんだろ」


 蓮とも同じ会話をしたからか、美羽の励ましをすんなりと受け入れられた。

 悠斗が美羽や哲也に許されたという事実を見ようとせず、覗き魔という事だけで悠斗を悪く言う。

 そこには、美羽と付き合った男という嫉妬が絡んでいるはずだ。

 ただのひがみというのは分かりきっているので、心が折れたりなどしない。

 とはいえ理不尽なものだと呆れ気味に零せば、美羽がはあと大きく溜息をついた。


「ほっといて欲しいんだけどねぇ。何回か直接言われたから、しっかりと説明しておいたよ」

「助かる。でも、あんまり怒らないようにな」


 以前悠斗の悪口を言われた際の美羽の態度からすると、美羽へと尋ねた人に静かな怒りをぶつけた可能性がある。

 もちろん嬉しいし、美羽の口から改めて説明すれば、悪い噂もなくなるはずだ。

 それでも、美羽が本気で怒る光景はあまり想像したくない。

 神経質にならないで欲しいと懇願するが、綺麗な髪が靡く程に美羽が勢いよく首を振る。


「絶対に嫌だよ。悠くんはちゃんとしてくれたのに、それを分かってない人にはお仕置きだからね」

「……まあ、それならいいか」


 悠斗が言って駄目なのだから、誰が言っても美羽は止めない。

 嬉しさを混ぜ込んだ苦笑を落とすと、ちょうど駅に着いた。


「それじゃあ、後でな」

「うん。買い物を済ませて待ってるね」

「ああ。今日の飯も期待してる」


 同じ家に向かうのに、こうして別れるのがもどかしい。出来る事なら、今からでも電車に乗りたいくらいだ。

 しかし、自転車を放っておくわけにもいかない

 僅かに寂しさを混ぜ込んだ表情で手を振る美羽へ背を向け、自転車を漕ぎだした。





「さて。相談というか、提案があります」


 学校のごたごたは脇に置いたようで、晩飯後にソファで寛ぎつつ美羽が提案してきた。

 畏まった姿からは張り詰めた雰囲気が出ており、自然と悠斗の背筋が伸びる。


「何でも言ってくれ」

「今日は悠くんを送ったけど、明日から一緒に登校したいな」

「……俺も同じ事を思ったけど、先に言われちゃったな。それに、家を出る時に気付かなくてごめん」


 こういう事は彼氏から言うべきだと思ったが、先を越されてしまった。

 情けない彼氏だと自虐しつつ頭を下げれば、美羽がやんわりと首を振る。

 それどころか悠斗も乗り気なのが分かった事で、幼げな顔が歓喜に彩られた。


「いいんだよ。なら、明日から一緒に登校しようね」

「おう。満員電車も美羽が居るなら耐えられそうだ」


 クリスマスイブを含めて悠斗も何度か経験しているが、学校から遠いので電車に乗る時間が早い。

 結果として最初は空いているものの、学校に着く前の電車の中は満員だ。

 人混みが嫌なのは変わらないとはいえ、美羽と一緒なら乗り越えられる。

 明日の登校が楽しみで頬を緩ませると、形の良い眉がへにょりと下がった。


「一緒に自転車通学するのも考えたんだけど、時間が掛かりそうだしね」

「……というか、乗れるのか?」


 美羽の小柄な体つきだと、普通の自転車を漕ぐのが大変なのだろう。時間が掛かって当たり前だ。

 そう納得はしたものの、そもそも自転車を漕げるのかという疑問が浮かび、つい口から出てしまった。

 流石にないとは思うが、美羽は運動が苦手なので自転車に乗れない可能性があるのだから。

 思いきりデリカシーのない発言をした事で、美羽が顔を真っ赤にして眉を吊り上げる。


「私だって自転車に乗れるもん! 馬鹿にするなー!」


 久しぶりの子供扱いに、美羽が瞳を潤ませて悠斗の肩を叩いてきた。

 とはいえ叩く勢いは大した事がなく、本気で怒ってはいないのが分かる。

 ただ、美羽の怒り方が可愛らし過ぎて、顔がにやついてしまいそうになった。

 そんな事をすれば今度こそ美羽が本気で怒るので、表情を必死に抑え込み、美羽の頭を優しく叩く。


「そうだよな。美羽は自転車に乗れて凄いなぁ」

「絶対に馬鹿にしてるよね!? 本当に乗れるんだからー!」

「いや、ホントに悪かったって!」


 悪い事をしたと理解していても、初めて会話した頃のようなやりとりに妙な懐かしさを感じた。

 しかし、お互いの体に触れるのに遠慮はなくなっている。

 変わったものと変わらないものになぜか胸が痺れ、それはそれとしてぷりぷりと怒り出した美羽を必死に落ち着かせるのだった。

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