16

「灰燼ト為セ――黒触火厄ネロ・フエゴ


 さらなる変化を遂げ、蝿のようなおぞましい姿となった化物は六本の脚を天に掲げると、何もない宙に黒炎の火の玉を宙に出現させた。


 瞬時に大気中の水分が蒸発するほどの熱量に気管の粘膜が貼りつき呼吸もままならなくなる。


 周囲の枯れ木が極度の乾燥で自然発火するほどの高温と、凄まじい魔力を秘めた火球が地上の二人に迫っていた。


「サカナシさん! 僕の後ろに今すぐ隠れてください!」


 必死の形相のアイリスは再び妖精王の手鏡アーリアミロワールを発動させ、無悪は即座に言われた通り隠れた。

 だが、攻撃を止めたのはほんの僅かな時間――アイリスの退魔魔法を軽々と打ち破った火球は二人を巻き込んで、ピニャルナ山の頂上から裾野を瞬く間に業火で飲み込んでいった。


 実験棟も同様に火の手に飲まれ、大量のサリンを保管していたタンクもろとも破壊され尽くされた結果、燃え盛る黒炎と漏れ出たサリンによってピニャルナ山全体が地獄と化す。


「コレデ少シハ私ニ相応シイ景色ニナッタカ。シカシ……神狼ノ魔石ハ黒触火厄ヲモッテシテモ傷一ツツカナイトハ。サスガ死シテモ神獣ノ名ハ伊達デハナイナ」


 視界に映る景色の中で唯一形を保っていたのは、サリン製造の実験に触媒として使用されていた古の神獣、神狼フェンリルの魔石だけだった。


 その他の一切は燃え盛る黒炎の中で灰燼となり、脆い肉体を持つ脆弱な生物が生存できる環境ではなかったが、上空から高密度の魔素を感知した複眼は業火の中でグロックを構える輪郭シルエットを確認した。


「ナンダト……? タダノ人間ガ無事ナハズハ」

「とっとと消えやがれ。ゴミにたかるブンブン蝿野郎が」


 標的を捉えた銃口から発射された銃弾に対し、咄嗟に防御姿勢を取った魔族の脚は着弾後に激しい爆発に巻き込まれたことで、計四本、さらには硬度の高いはねが一枚爆破し弾け飛んだ。


「ナッ……! ヨクモ、ヨクモ崇高ナル私ノ体ヲ傷付ケタテクレタナッ!」


 いくら想像を超える破壊力だったとはいえ、人間に深手を負わされたという事実は痛みを遥かに上回る屈辱感を魔族に与えた。

 烈火の怒りに燃える複眼は白い光に包まれている二人に向けられる。


「何故ダ……。私ノ魔法ヲ凌グコトナドアリエナイ。ダメージヲ与エルコトモ本来ハ不可能ダ。ソモソモ地上ハ貴様ラ脆弱ナ人間ガ生存可能ナ環境デハナイノダゾ。ナンナンダナンナンダ……私ヲ邪魔スル貴様ハイッタイナニモノダ! 貴様ガ纏ッテイル魔素ハ、マルデ神狼ノモノデハナイカ!」

「俺もちょうど驚いてるところだ。だが、これで形勢はひっくり返ったようだな」


 無悪もまさか自分が五体満足で立っていられるとは思ってもいなかった。

 妖精王の手鏡でも防ぐことができなかった凶悪な魔法を前に、万策尽き唇を噛んで見上げていたアイリスの前に出た無悪が、全身で炎を受け止めるよう仁王立ちをした時に奇跡は起きた。


「どいてろ」

「何をするつもりですか!? あの魔法はお一人でどうにかなる規模の魔法ではないんですよッ! わたしがどうにか時間を稼ぎますから、サカナシさんだけでも逃げてください!」


 横から飛び出でようとするアイリスを引き止める。


「みすみす敵の逃走を許すような奴に見えるか。魔族あいつらについて俺よりよっぽど詳しいお前が敵わないと思うのなら、現時点で俺達に残された選択肢はないんだよ」

「そう思うのなら、どうして私の盾になるような無茶をなさるんですか……」


 どうしてなのか――アイリスの問いに、余計な考えを捨てた無悪は初めて素直に答えることができた。


「二度も、お前を裏切る訳にはいかないんだよ」


 生まれてこの方、他人を利用することはあれど信用したことなど一度たりともなかった。ガキの頃から世界はかくも弱者に厳しく、強者にはとことん甘い構造であることを知り、反抗するものは徹底的に潰して従え、利用できるものはさんざん利用し尽くして慈悲もなく切り捨ててきた。


 これまで手にかけてきた人間は数知れず――築き上げてきた死屍累々を平然と踏み込え、その先で待っている唯一人尊敬した男の背中を追ってこれまで生きてきた。


 日本だろうが異世界だろうが、どこまでいっても俺という人間の本性が変わることなどあり得ない。


 後悔も懺悔も俺には無縁。誰よりも強くなりたいと願い、甘えは全て断ち切ってきた。最後に立っているの俺一人だけでいい――たった一つの悲願さえ叶えばそれで十分だった。しかし、無悪はその未来を自ら放棄した。


 たった一人の子供アイリスを助けるために。


「ったく……俺もとうとう焼きが回ったか」


 初めて胸に宿った感情は、砂糖漬けの缶詰よりよっぽど甘ったるく不快な胸焼けを起こす酷い味だったが、存外悪い気がしなくもない。


 背後でスーツの裾を掴む気配がする。初めてアイリスと出会ったときも、確か同じように助けを求められた。


 死が迫っているというのに、無悪の気持ちは不思議と凪いでいる。


 今、お前はどんな顔をしている?

 俺と出会ったことを後悔しているか? 

  

 聞きたいことは山ほどあれど、残された時間はそれを許さない。最後の最後まで、敵を前に逃げる選択肢はこの無悪斬人の辞書にない。


 無様に背中を見せて殺されるくらいなら、俺の全てを賭けて馬鹿なお前を守ってやる――。


 覚悟を決めて迫りくる火球に両手を広げ待ち受けていると、無悪の胸元が突然光だした。


 その光は内ポケットから発せられている。不思議に思い取り出すとブラン村で別れ際にリナから手渡された御札が白く輝いていた。


 二人を包み込むまでに広がりをみせた光は間近に迫っていた業火から二人を守るだけでなく、周囲を取り巻く猛毒のサリンからも身を守ってくれた。


「サカナシさん。その御札はいったいなんですか……?」

「安全祈願と麓の村で貰ったもんだが、俺にも何が何だがよくわからん」


 地獄と化した地上で二人して何が起きたのか呑み込めずにいると、光の中に一匹の狼が姿を現し驚いていると、あろうことか人語で語りかけてきた。


「こうしてお会いするのは久しぶりですね。とは言っても私の姿はだいぶ変わってしまったのでお気付きにはならないでしょうが」


 狼とはいっても見上げるほど大きく、全身を穢れなき純白の毛で覆われ容易に近づき難い気品さえ感じる佇まいで無悪を睥睨へいげいしていた。


 どうやら魔族は狼の姿に気がついていないようで、空中でホバリングを続けている。


「いや、待て……お前はあのときの野良犬か?」


 人語を駆使する狼に驚くより先に、以前どこかで出会ったような懐かしささえ感じる気配に、無悪の記憶の中の一ページが甦った。


 かつて戯れに餌を与え、名前もつけずに世話をしていた子連れの野良犬。遠い昔に無悪に報復をしようと企んだ愚かな連中に殺されたはずでは。


「ふふ。気付いてもらえて嬉しいです」


 鋭い牙を見せて笑うと、上空で満足気に蹂躙し尽くした大地を見下ろしている魔族を忌々しげに見やり、唸り声を上げながら語りかけてきた。


「積もる話はありますが、今はあの鬱陶しい蝿を追い払うことが先決です。どうか貴方の力で追い払っていただけませんか?」

「そうしたいのは山々なんだが、今の俺の力ではどうにもならない。魔素の差がありすぎる」

「それなら問題ありません。今の私は恥ずかしながら実体がないので直接手出しができませんが、お手伝いくらいは出来ますよ」


 そう告げると断りもなく無悪を大きな舌で一舐めした。直後に疲弊しきっていた身体に活力が満ちて、消費した分以上の魔素が回復した。


「凄い……最高級の回復薬ポーションでもこうは回復しませんよ」

「凄いなんてもんじゃねぇ。これなら奴を倒すことも無理な話ではないぞ」



 みなぎる魔素を制御コントロールすることは、元来緻密な作業が苦手な無悪にとって知恵の輪を解く作業のように難易度が高いはずなのだが、狼が荒れ狂う魔素を一点に導いてくれる。


 銃口を魔族へ向け、膨大な魔素を一極集中させた銃弾を放つと余裕ぶっていた蝿野郎に着弾した瞬間、凄まじい威力の爆発で脚と翅がともに弾け飛んだ。


 舐め腐っていた人間にまさか手痛い反撃を受けたことに怒りを隠そうともしない魔族は、残った脚を掲げると先程とは比べ物にならないほど巨大な黒炎を出現させ語気を荒らげる。


「許サナイ許サナイ許サナイ! アノ御方ノ計画ヲ乱ス不穏分子ハ、コノ私ガ決シテ許サヌ! 貴様ラノ魂ゴトコノ地ヲ未来永劫消滅サセテヤル!」

「一々喚いてないでやってみろよ。この無悪斬人が貴様の本気を打ち砕いてやる」

「人間ゴトキガ図ニ乗ルナッ!」


 魔族の脚が振り下ろされると、黒炎は地表の二人めがけ落下する。


 一度深く息を吐いた無悪は、その中心に狙いを定め軽く指を引くだけだった。


 射出された弾丸は魔族の渾身の一撃に触れた瞬間黒炎を消滅させ、その先で浮遊していた魔族の胸部を撃ち抜く。


 魔石が収められているべき場所は空洞になり、その奥の満月が顔を覗かせていた。


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