12

 かつて日本の大都市で起きた世界初の無差別化学テロは記憶に新しい。


 霞ヶ関に務める警察関係者を狙った〝宗教団体〟が、多くの警察関係者を殺傷する目的で通勤時間帯の地下鉄に神経ガスを散布したのだが、計画を焦ったのか純度が低い未精製のまま散布したため閉鎖空間だったにも関わらず、死者は十三名に留まった。


 そのテロで使用された神経ガスが目の前のタンクに保管されている――しかも数トンでは収まらないレベルで。

 国家転覆を狙っていた宗教団体が製造を試みようと計画していた総量に匹敵する。



「ここは……まさかサリンの製造工場か」

「半分正解。ようやく僕一人でサリンを大量生産する目処がついたんだけど、このままだとまだ完成とは呼べないんだ。ちなみにこれは何だと思う?」


 イシイが指を鳴らすとそれを合図に足元の床が突然開き始め、見せたかったという代物が地下から迫りがってきた。


「なんだ、これは……」


 思わず絶句してしまうほどの大きさのそれは、大型トレーラー並みのサイズに不純物を一切含まない透過性を持つ球形の物体だった。


 答えを待っている間もイシイは実験機材から伸びるケーブルを何本もそれに繋げてなにかの準備を始めた。


「これは、巨大な水晶の原石か?」

「不正解。こう見えて一個体の魔石なんだよ」

「これが魔石だと? 下手な嘘をつくな。一体どれだけの巨体であればここまで魔石が大きくなると言うんだ」


 魔石の大きさは個体の大きさに比例し、透明度の高さは魔力の高さに比例する。

 これまで散々モンスターを狩ってきた無悪にとって普遍の常識を嘲り笑うように、厭味ったらしく人差し指を振るイシイは解説を始めた。


「この魔石は〝月を呑み込む〟とまで謳われた古代の神獣――神狼フェンリルの魔石だよ。その巨体は山に等しく、足跡には湖が生まれたと伝承が残る化け物さ。悠久の時を生きた神狼の魔石は高純度かつ大量の魔素を含んでいてね、僕の宿願を達成するための肝心要な触媒なのさ。でも僕の財布からはビタ一文も支払っていない。いったいどれほどの天文学的な金額になったのか知る由もないけれど、僕の研究成果を欲しがる国が探せばあるというわけだよ」

「なるほどな、はじめからおかしいとは思っていた。これだけの設備を維持するだけでも相当な維持費がかかるはずだというのに、背後に資金を流す金主パトロンがいないはずがない。ただ、それだと疑問がまだ残る」

「疑問?」

「金主が必要であれば、なにも最初に召喚された国から逃げなくても良かったんじゃないのか」


 勅命を断った原因は金の面かと思いきや、無悪の指摘にイシイは初めて不服そうな表情を見せながら口を尖らせた。


「あそこは全然ダメだったよ。僕の思想とはあまりにかけ離れていたからね。ロマンというものを全く理解していなかった」


 それ以上は多くを語ろうとせず、「世紀の瞬間だ」と告げると今度は頭上の屋根が音を立てて開かれた。


 これから何をする気なのか、黙って見届けていると真上に位置していた満月から降り注ぐ月明りが神狼の魔石を照らす。


 すると――無色透明だった魔石に変化が生じ始めた。次第に自ら光を放ち始め、ケーブルに繋がれていた計器の針が振り切れそうな勢いで魔素の上昇を示していた。


「満月の灯りを吸収した魔石からは、通常の倍に当たる高濃度なエネルギーが放たれることを突き止めた。拳大の魔石から採取できる数値を仮に一とした場合、このサイズの神狼の魔石から採取できるエネルギーの数値は、なんと万だ。しかも一度きりの消耗品ではない。半永久的に効果が続くのだよ」

「確かに貴様にとっては諸手を上げて喜ぶべき実験結果なんだろうが、それを惜しげもなく俺に披露してどうするつもりだ」


 生かして返すつもりがないのであれば納得はできるが、イシイの考えは異なっていた。


「今夜実験の集大成が完成する。ちょうど人狼隊も壊滅したことだし、この土地には見切りをつけようと考えている。そこで君さえ良かったら、僕と一緒に来ないかい?」

「俺が、貴様と?」

「そうだよ。僕は君を気に入ったんだよ。路傍の石と同価値の正義を掲げる連中には、僕の崇高な実験なんて理解できやしない。だけど君は微塵も興味を抱かない代わりに、阿呆な連中のように眉をひそめることがなかった。糞の役にも立たない道徳心など一ミクロンも持ち合わせていないその目が気に入ったんだ。どうだい? 君が望みさえすれば僕はいかなる協力も惜しまない。僕と一緒に今夜中にも出立しようじゃないか」


 舞台上の俳優のように能弁を垂れて差し出された手を、暫く見つめていた無悪は握り返すことなく答えた。


「なんともつまらない男だな」

「……失礼、今非常に不愉快な聞き間違いをしたようだ」

「つまらないと言ったんだよ。貴様が何を企もうが何を製造しようが知ったこっちゃねぇが、俺には貴様の言い分が〝もっと僕に注目してくれ〟と訴えているようにしか聞こえないんだよ」

「なんだって? 僕を愚弄するのか」

「こんな化学兵器を作れる僕は凄いだろって世に自慢したいのか? 悪いが俺は自分を認めてもらいたいだけのガキの世話をするつもりはない」

「は、ははははは」


 急に笑い出したかと思うと、白衣のポケットから硝子のケースを取り出した。

 何をするのか観察していると、中に収められていた注射器ポンプを自らの首筋に針を突き刺し投薬した。


 青紫に怒張した血管から全身に薬剤が広がると、貧弱な体つきは人狼を軽く凌ぐ巨体に膨れ上がり、近くにあった機材を振り下ろした拳で粉々にしてみせた。


「こんなに虚仮にされたのは初めてだよ……。なるほど、怒髪天を衝くということわざはこういう心境で使うのだな。フフフフハハハハハハハッ!」

「B級映画よろしく自分にも強化薬ドーピングを打ったのか。随分と体がゴツくなっているようだが、正直バランスに欠いて気持ち悪いだけだぞ」

「外見を気にするのは三流の証さ。言っておくが僕が打ったのは〝強化薬〟のようなチンケな薬剤なんかじゃない。身体能力を人外の勇者にまで近付ける〝神化薬〟さ。まだ臨床実験の段階だったから君をモルモットに臨床実験とさせてもらうとするよ」


 神化薬の影響か――イシイの肉体は常に最適化を試みるように筋肉が隆起と蠕動ぜんどうを繰り返し、それに合わせて骨格も破壊と再生を繰り返していた。


「まるで全身を鉄槌ハンマーで休む暇もなく砕かれているような激痛だよ」


 そう言って床に手をつき低姿勢に構えた次の瞬間――途轍もない速度で突進してきた肉体が砲弾のように無悪に直撃した。


 避けることも防ぐことも出来なかった攻撃を前に、勢いをいなすことができず研究所の壁をぶち抜いて屋外へ転がり出た無悪が立ち上がろうとしたそのとき、体に異変を感じた。

 

「なんだ? 体が、言うことを利かない」


 立ち上がろうにも大腿部から下の筋肉に力が入らず、上手く立つことが出来ない事態に陥っていた。


「転生した人間は特有の恩寵スキルを備えていることくらい知ってるだろう。僕はね、自らの体内で独自の毒物を精製することができるんだよ。残念ながら即死させられる毒を精製することはできないけれど、人一人無力化することくらい余裕なんだよ。君が今、満足に立てなくなっているのは僕が両脚の自由を奪う毒を体内に注入したからなのさ」

「一度自分の膂力を見せつけておいてからの毒の投与か――やることがせこいな」 

「ぬかせ、実験にもならなかったと後で結果を報告しておくよ」


 ゆっくりと近寄ってきたイシイは肥大化させた右腕を大きく振りかぶると、捨て台詞を残して無悪に振り下ろした――。


 

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