屍血啜りのアルラウネ

 確信がある。この大きな緑の海が一種の結界だとするのなら、その中心がここだと。切断し、その再生を炎で阻みながらここまで歩いてきた。最後の壁を吹き飛ばすことで開いた視界には、当初の目的地と設定していた景色の一部が認められる。縦横50メートル程度に広がる芝生、その周囲を囲う遊歩道、市役所裏の中央公園だ。現実に効力のあるものを生み出すなら、その基点は最も現実と重なる必要がある。そうささやく声がした。

 記憶にあるものとほとんど変わらない風景が突然浮かび上がると、案外困惑するもので、いつの間にか立ち止まっていたらしい。幸いにも背中を刺そうとする枝はもうない。全て焼き払ったという可能性は皆無なだけに気味が悪い。あそこにいる意思の差し金か。

 見慣れた公園の中心からやや離れた場所に位置する見慣れないモノ。本来ならそこには、この公園が江戸の昔には処刑場だったことを示す石碑が隠れるように配置されているはずだ。それが見当たらず、代わりに違う存在がある。もう少し近寄ってランタンの火を当てないことには細部はわからないけれど、女人像という名詞をあてるのが適切だと思う。しなやかな曲線で樹木から掘り出されているのはきっと、長い髪と慎ましやかな乳房。若い女性、その上半身が桜の中心に、まるで取り込まれたかのように描出されている。そう、桜だ。この樹だけは一目でわかる。今までわたしを散々追い立ててきた連中に比べて常識的な大きさに収まっていて、そして、甘やかな乳白色に染めた花冠で飾られている。たしかに、この美しさには代償となる恐ろしい秘密を求めずにはいられない。コレは特別だ。周囲の空気を濃密な神秘に染め上げて、支配しているように思えた。

 これがわたしのやっつけるべき相手で、わたしを殺そうとした森の王。ヒトを象っていることに反応したのか、持っているはずのない知識がささやきとして聴こえる。アルラウネ、刑場に咲くという半人半樹の精霊に違いない……その異様は不気味な樹海の統率者に相応しい。

 わたしがわたしに唱える言葉、あれを殺せ、あれを赦すな。ささやきはいつしか叫びとなってわたしの内側で反響する。今日、生まれて始めて受けた、重く絡みつく液体のような感情、殺意と呼ばれるそれを、今度は自分が放っていることに気がついて、それがなんだか恐ろしくっておもしろい。あの人の……統さんの言葉は、遠くなればなるほど存在感を増していくようだ。使命なんてカッコいいものじゃない。ただの憎悪だ。こんなものが他でもないわたしから放たれているのなら、なるほど呪いというのも頷ける。

 10メートル弱の最短距離を走る。ランタンの射程に入れさえすれば、これまでと同じように伐採してしまえるのだ。

 ……最後の抵抗があると、予想していた。きっとこの獲物は全ての生命を懸けてわたしという刃物から逃れるための手段を打ってくると。それが、裏切られる。10メートルの直線、芝生は一切阻むことなく、土くれがべったりと張り付いたローファーをいっそ軽やかに走らせる。まるでここにいる全ての意思が同意したかのように。なんらかの罠か、けれど、それでも対象が罠や疑似餌といった線はない。わたしが教えてくれる。あれこそが殺したかったものだと。だったら間違っているはずはない。言う通りにすれば魔法が使えた。言う通りにすれば魔法を使っていいモノが現れた。この感覚はぜったいに間違わない。使命でも呪いでもよかった。気持ちがいいならそれで、満足。射程に捉えた。今、魔法を奔らせる。

 ……二度、裏切られた。炎に巻いた木々が爆ぜる音がしない。刀で斬り飛ばす瞬間の手応えがない。今まで楽しんできた感覚を突然奪われて、魔法が機能しなかったことに気がついた。そしてあっさりと、絡みついた何かに足をとられる。時間の感覚は転倒の瞬間よりもずっと前からスローだったけど、考えに空白が挟まるのはずいぶん久しぶり。痛みの直後に思い出すのは、価値を感じなかったあの言葉、ドアを叩きつける音でかき消したはずの言葉、炎では難しい。なんだそれ。じゃあどうすれば良いのかなんて、教えるつもりもないくせに。

 足元に転がるわたしをアルラウネが見下ろしているらしい。殺意が上の方を向いている。でも、どうすればいいのか。炎も切断も効かないなら、もう魔法なんて残ってない。今すぐ立ち上がれだなんて無責任な言葉が鬱陶しい。気持ちを張り詰めさせる心なんて、とっくの昔に尽きている。擦りむいた膝が熱い。きっと血が出てる。これからどう殺されるのか……そういう考えだけがぐるぐるしている。きっとまだ恐怖がぼやけていて、だから泣き叫ばずにいられてる。ああ、わたしはもう、次を用意することに決めたらしかった。花が、萎れていく様子を早回しにしたみたいだ。脱力は指先から始まった。今まで散々ぶちまけていた魔法の源が、お風呂の栓を抜いたみたいになくなっていく。最後の、9番目のわたしになるはずだった個体に間違いがあった。無かったことにして、新しい9番目を用意しよう。そんな裏技があるなんて知らなかったな。処刑場の主が手を下すまでもなく、わたしはわたしで勝手に死ねるようにできていたらしい。困ったな。あんなのでも一応は親戚なのだし、下宿先でもあるわけで、最後にごめんさいくらいは言っといたほうが未練がないのだけど。

 困ったらいつでも電話しなさい。そう言っていたっけ。9番目としてのわたしが最後に考えるのは、どうしてか叔父さんのことで、それはきっと、こうして運命に見放されたことで他に縋るものを探しているからだ。溺れているので藁でもつかみたい……なんて、それだけの考えでしかない。いやな奴だな、わたしって。

『やぁ九楼。応答してくれてどうもありがとう。そろそろ困ってそうだから、こっちから連絡することにしたよ』

「……な、叔父さん。ここ、圏外じゃないんだ」

『音が悪い。案外冷静だね? もちろん圏外だけど、僕は最後の魔女に魔法を教えてるんだぜ? これくらいはね』

 応答した覚えのない通話が届いた。ちょうどブラウスの裾に無理やり収めたスマートフォンからだ。直接触れさせなかったけど、たぶん何か細工をされてる。姪っ子の私物、それも個人情報の塊に触るなんて、なんらかの法に触れてもおかしくない。例えそれが自分が買い与えたものだとしても……。身体がカッと熱くなるのを感じた。

『リセットボタンにはまだ早い。さて、講義の続きをしたいんだけど、聴く気はあるかい?』

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