第1話 届けられます

 新年度スタートの4月1日。多くの企業では入社式や、新入社員の挨拶などが行われる日だ。

 御多分に洩れず、当社でも入社式を行うのだが…資料はどこに置いたかな。基本的には少数精鋭で仕事や運営をしている当社としては、新入社員など実に久々である。前回の新入社員や入社式をしたのは確か…と、あったあった。どうして食器棚に資料があるんだ。

「ちょっと、朱里さん?」

「なによ」

 声色で判断するに些かご機嫌が悪い様子であるが、資料作成は彼女に一任していたため気にせず聞くことにする。

「食器棚に新入社員用の入れておくなんて斬新なことをした記憶ある?」

「は?」

「いやね、もうそろそろ来るだろうから準備してたんだけど見当たらなくてさ。漸く見つけたと思ったら食器棚にあったんだよ。で、てっきり朱里さんかなと」

「………」

 反応がない。これは本当に朱里さんだったのか?ああ、朱里さんというのは僕の…

「さっきアナタが持って歩いてたじゃない。普通に珈琲を入れて席に戻ったでしょ?」

「ん?」

 妻の言葉を聞いて記憶を辿ってみる。僕が持ってたんだっけ?

「おうおう、なんだい。ミスター、もうボケたのか?有田くんに頼んでどこか施設でも探しておこうか」

「よしなさいよ」

「そうだよ。いきなりじゃなくて、まずは認知症のテストみたいなのを僕達でやってから、それから病院とか施設にだね…」

「うるさいよ。あったからいいんだ、あったから」

 隙をみせればすぐに弄ってくる煩い男3人に、どこか拗ねるような口調で僕は言い返した。

 東京都新宿区。駅としては市ヶ谷が最寄りの当社の新年度は、こんな感じで始まる。

 見つけた資料を片手に自席に座り、やや温くなった珈琲を口に含んで思う。今日がいい天気でよかった。




 市ヶ谷駅。ホームから見える釣り堀がある駅と言えば、ピンとくる人も多いと思う。自分の印象もこんなところだし、あとは防衛省だろうか。近くに大学もある気はするけど…遠いようで近い?近いようで遠い?飯田橋との中間あたりで、実際はどっちが最寄りになるのかわからない。

 いやまあ地図アプリなどで見れば正解は出るのだろうが、今はそこが重要というわけでもないので割愛しよう。

 どうあれ市ヶ谷駅の印象といえば、どうしても釣り堀か防衛省になる。

 しかしながらあまり下車する機会のなかった駅や街というのは、歩くのも新鮮で楽しいものだ。迷うかもしれないという不安もあるけど、少し歩けば多少は土地勘のある飯田橋や水道橋も近い。そのせいもあってか、楽しい通勤時間といえる。ただしそれは電車と駅を出て、徒歩になってからの話ね。電車と駅を出てからは、心地よい時間だと思える通勤時間だ。

 どうして同じことを言ったかって?それはもう、通勤時間と利用路線を考えたらわかると思う。利用路線が中央総武線だからだ。利用者や経験者は察してほしい。そういうことなのだ。

 さて。今は平日の9時半すぎ。牛込中央通りにあるビルの前に到着し、ビルに入ってエレベーターを待つ。目的地は5階だ。

 ほどなくしてエレベーターが到着。ドアが開くと、スラリとした体型に腰付近まである黒髪の女性とすれ違う。すれ違いざまに会釈をして、自分がエレベーターに乗り込んだ。

「美人って、いるところにはいるんだな」

 定員が8人のエレベーターに自分だけということもあって、つい声に出る。

 微かに上昇の感覚を受けながら深呼吸。エレベーターの回数表示が目的の5階になる前に

「さあこれからだ。頑張れよ、自分」

 小さく声に出して集中する。

 新年度初日。入社初日。ここから新しい生活が始まる。山崎一之26歳になる新年度のことであった。




 株式会社CUE+(キュープラス)は、世界的ヴァイオリニスト堂本聡子(ドウモト サトコ)をサポートする会社であった。そのサポート内容は、主に楽器の運搬や輸送である。

 基本的には本人がヴァイオリンを持って移動するものだが、ツアーや本番前の調整には本番では使わないものもある。そのため本人だけでは持ちきれず、また故障や盗難などのトラブル対策を考慮して専門の業者に依頼するケースも多い。

 その専門業者として指名されていたのが、先程新入社員用の資料を探していた鈴木貴教(スズキ タカノリ)であった。妻の朱里(アカリ)と2人でCUE+を立ち上げ、堂本聡子の日本国内におけるツアーやゲスト参加時には全公演でサポート。かねてより知り合いだったこと、鈴木夫妻も弦楽器経験者ということもあってのことだ。

 音楽で食べていくというのは難しい。音楽をするということであれば比較的平等であるが、楽器で食べていくところになるには並大抵の努力や成果ではない。寝る間を惜しみ、明け暮れる時間を捧げて辿り着くものである…というわけでもない。

 数多くはないがどの世界にもどの界隈にも、残酷なことに天才はいる。血の滲むような練習を重ねて、飽きる程の挫折や苦しさを経て掴んだ舞台を、事も無げに乗り越えていく人が出てくるのだ。

 一部からの嫉妬と羨望を浴び、罵声を受けることになろうとも容易く受け流し、時にはそれすらをも利用して進んでいく。どうしようもない天才たち。

 堂本聡子は、鈴木夫妻からみるとその部類に入る人間である。ただ鈴木夫妻は堂本本人に嫌悪感を抱くことはなく、寧ろ尊敬や好意の方が強かった。

 だが同じグループでヴァイオリンをやっていたことで、時折鈴木夫妻も皮肉や不満の対象になることもあった。

 しかし微塵も意に介さないどころか、そもそも聞いていないように誰とでも話す鈴木夫妻もまた、ある種の天才である。

 感激も落胆も呼吸と同じ、生きていれば必ず感じていくもの。であれば全てを感じた上で、前に進むための合図としたい。その合図が鳴らず、示されないのであれば、私達自身が合図になる。

 それがCUE+の始まりであり、理念であった。

 堂本聡子本人を嫌いになることはないが、堂本聡子ほどのヴァイオリニストにはなれない。鈴木夫妻も早いうちに感じていたことが、現実的に迫ってくる時期がやってくる。就職活動である。

 オーケストラに所属するといってもその規模は様々だ。プロとして、本当に演奏だけで食べていける人達など一握りの少数に過ぎない。

 オーケストラに所属し、地方や地域のホールで演奏会などをする人達がいても、その大半は副業ありきである。大多数が趣味の延長で技術を維持し、腕を磨いている人達が主だ。

 それだけでも十二分に上手いのだが、見えないだけで高く険しい壁というものがどの世界にもあるというもの。友人としての関係は悪くなくても、ヴァイオリニストの格差は無惨にも広がった結果が、プロとして活躍する堂本聡子と運び屋として生計を立てる鈴木夫妻の違いだ。

 その運び屋である鈴木夫妻の今現在は、楽器専門ということではなく、都内近郊をバイク便で運び届ける会社として運営している。好きなことだけで生きていくというのは、とても大変なことである。

 生きていく。

 文字としてはこれだけだが、とても難しい。

 好きなこと。得意なこと。自分に出来ること。それを捨てて、過去のものにして新生活が始まる。




 入社式を終えた事務所には穏やかな時間が流れていた。自分…山崎一之(ヤマサキ カズユキ)はというと、今現在として特にできる仕事もなくパソコンの前でメジャーリーグの試合を見ている。

「痛烈な打球でしたがこれはセカンド真正面のゴロ。落ち着いて打球を捌いてワンナウト。先頭打者の出塁を阻止しました」

 熱量はありながらも落ち着いた口調で実況は伝える。聞いていて心地よい語り口。このアナウンサーさんはいつ休みがあって、年間何試合のスポーツ実況をしているのか。などと思っていたら話し掛けられた。

「おっ、山崎くんは野球見る人かい?」

「そうですね、結構見る方だと思います。藤本さんも野球お好きですか?」

「そうだねぇ、俺も結構見る方かな。ここで仕事をする前は北海道で仕事してさ、そこで見るようになってからはドームにも行くようになったしね」

「そうなんですか、それだとチームは札幌ですか?」

「そうだねぇ。やっぱり地元だと中継も多いし、自然とそうなったかな」

 藤本さん。藤本忠行(フジモト タダユキ)さんは180センチくらいで少しふくよかな体型をしており、短髪で髭を貯えている。

「おっと、俺も試合は見たいけど見てる場合じゃなかった。そろそろ行ってこないと」

 そう言うとヘルメットを手にしてバッグを抱えて動き回る。

「藤本くん、ちゃんと承認用のタブレット持ったかい?」

「持ったよ、うるさいな」

「そう言って昨日やらかしたじゃないのよ」

「いいんだよ、昨日のことは。山崎くんが知らない話を、わざわざぶり返さなくていいじゃないか」

 話し掛けられた藤本さんは、ややバツが悪そうに言い返す。声が太く大きいため、一瞬怒っているのかと思ったがそうではなさそう。恥ずかしさを隠すような表情だ。

「何言ってるのよ、こういう話は共有しないとダメでしょうが。ミスターがいつも言うでしょうよ、報連相はちゃんとしなさいって」

「こういうのは報連相じゃなくて、お前がただ単に俺を弄っておきたいだけだろ」

「当たり前でしょうよ、こうでもないと日頃の仕返しできないんだから」

「はいはい、わかったわかった。俺はね、今忙しいの。帰ってきたらまた相手してやるから」

 それじゃあ、行ってきます。

そう言い残して、藤本さんは少し慌ただしそうに出ていく。その背中に、いってらっしゃいと事務所に残っている面々から声がかけられた。

 藤本さんが出ていくと、ミスターと呼ばれる鈴木貴教さんが背伸びをする。

「小泉くん、本当に藤本くん忘れてないかデスク見といて」

「まあ大丈夫じゃないです?さすがに2日続けてってことは、いくら あの 藤本くんでもやらないでしょ」

「いやぁ、どうだろう…やりかねないでしょ、藤本くんだから」

「そりゃあそうだけど。でもやらかしたって、どうせ藤本くんが取りに戻ってくるだけでしょ?」

「いやいや。あのね、僕も色々と言われるの」

「そうなの?じゃあまあ、しょうがない。一応見とくか」

 小泉くん。小泉洋一(コイズミ ヨウイチ)さんは、やれやれといった表情で藤本さんのデスク周辺を探し始めた。

 小泉さんは藤本さんと同じくらいか、やや高いくらい身長。髪型はパーマをしていて、細身でスタイリッシュだ。年齢は近そうな感じがする。

 ないっぽいから大丈夫じゃないかな。あ、そう?ならいいか。などと小泉さんと貴教さんが話している。年齢差は少しありそうだけど、なかなか距離感が近い。アットホームな会社です(なお本当にアットホームとは言ってない)という感じの会社とは無縁そうで、入社できて良かったと思う。

 そんなことを思っていると、事務所の電話が鳴って朱里さんが対応し始めた。

「はい、お世話になっております。ああそうでしたか、畏まりました。そうしますと…今は有田が別件で出ておりますので、ご要望であれば小泉を向かわせますが如何致しますか?」

 なんだい、もう出番かい?なんだ、思ったより早いじゃないか。などと小泉さんは呟いている。どうやら自分の案件ではなさそうだ。

「畏まりました。本日担当します小泉より、到着しましたら連絡がいきますので宜しくお願い致します。はい恐れ入ります、はい失礼致します」

「場所は何処です?」

 通話を終えると直ぐに小泉さんが聞くと

「千代田区二番町から港区東新橋1丁目まで」

 淡々と朱里さんが答える。

「なんだ、ガッツリとアリー担当案件じゃないの」

「しょうがないでしょ、別件で先に出たんだから。それとも、貴方が有田くん案件の方がよかった?」

「いやぁ、あっちは跨ぎ案件で面倒そうだからなぁ。まだこっちでいいけどさ」

「それならほら、さっさと動く」

 ボヤきながらも小泉さんは準備を整えてタブレットを操作している。

「東新橋でしたかね?」

「そう」

「はいはい、東新橋…と」

「行ける?」

「行ってきますよ」

 はい、じゃあいってらっしゃい。頼んだよ。へいへい、行ってきます。と会話を交わし、小泉さんも出発していった。そのため事務所に残っているのは、貴教さんと朱里さんを除けば自分のみになる。いよいよ仕事のなさから気まずくなってきた。

 有田さん。有田雅彦(アリタ マサヒコ)さんはこの会社の最年長。今し方、小泉さんが向かったエリアを主に担当する社員さんだ。なんでも一時期は放送業界にいたとかで、放送関連の案件を担当しているらしい。前職とかは人それぞれだなぁ、と感じる。

 なお有田さんの身長や体型は小泉さんと同じくらいの細身で、髪型は少し刈り上げのあるツーブロック。藤本さんや小泉さんと一緒になって貴教さんを弄ったりしているらしく、ほぼ4人で1つのグループようだ。

 キュープラスは鈴木貴教さん、朱里さん。藤本さん、有田さん、小泉さんがレギュラーの社員さんで、他に2人の運び屋さんがいるとのこと。どうやら女性のようで、カッコいいなぁ、などと漠然と思った。

 しかしまあ、その…思ったらダメだと理解はしているものの、動きがないのは緊張もあって疲れる。

「試合は8回を終わりました。ホームのニューヨークが2点のリードのまま9回に入ります」

 パソコンから聞こえる実況アナの声が事務所に響く。溌剌さで明快な声を聞いて、どこか寂しさすら思える手持ち無沙汰を味わう。自分って必要か?メジャーリーグ中継がコマーシャルに入って賑やかになるのとは対照的に、自分は少し溜め息を吐いた。

 仕事や新生活は始まったばかり。慌ただしくて殺伐とするよりいいじゃないかと考えて、今はメジャーリーグ中継を見るという仕事をこなすことにする。




 ラフロイグ。燻されたような香りが特徴のスコッチウイスキー。好き嫌いがハッキリしそうな酒だ。正直に言って私は嫌いだった。嫌いだったのだ。うん。

 赤褐色と黄金色を混ぜたような色で、憂鬱とも爽快とも違うが、なんとも言えない安心さをくれる。夕陽のようであり、さながら朝日のようでもある。ぞんざいに髪をタオルで乾かしながら、ロックで飲むために準備した氷が溶け始めたラフロイグを口に含む。

 飲み込むと口の中に煙にも近い香りが広がり、鼻から抜けるラフロイグ特有のものを味わう。今日も相変わらず煙たいが、これこそがラフロイグである。

 一体いつから飲むようになったのか。その日のことなんてまるで覚えていない。そもそも覚えておく必要もなかった。

 それでもいつの頃からか飲むようになった。ワインだけを飲んでいた頃の自分は、もういない。勧められるがままに飲んでいた私は、もういない。どこか危なっかしくて、幼稚で、雛鳥のような純真さがあった私は、もういない。

 私は変わった。こんなに癖のあるラフロイグさえ、普通に飲めるようになった。選ぶことも出来るようになったし、選ぶということを出来る立場や価値観も持てるようになった。

 私は、強くなった。

「お前の後輩が出来たぞ。お前よりちゃんとしてそうな男で、お前より元気そうな奴だ」

 新年会で撮った集合写真。その中で私の隣にいる男は、随分と楽しそうにしている。私といえば、定番ともいえる面倒くさそうな表情でカメラを見ていた。もう二度と同じメンバーで撮ることのない写真を眺めつつ、どっかりとソファーに座る。

 棚に置かれたフォトフレーム。立っているときは私の胸元くらいだが、ソファーに座ると見下ろされたようになった。

 フォトフレームの中にある写真の中で、随分と楽しそうにしている男の表情に少しムッとして、私は髪を乾かしていたタオルを自分の顔にかけ。目を閉じて深呼吸。まだラフロイグの香りがする。まるで………

「……………」

 どれくらい考えたのかわからない。そもそも考えたという意識もない。ただ不意に思い出したことに気持ち悪くなった。

 顔にかけていたタオルを取って立ち上がると、勢いよくフローリングに叩きつける。思い出したことを忘れるように、テーブルにあるグラスを手にとってラフロイグを飲み干した。

 立ち上がったことで再びフォトフレームを見下ろせるようになり、私は本棚に手をついた。

「………寝る」

 マイスタージンガー1曲終わるくらいの間は立っていただろうか。細かくは記憶にない。色々と考えて疲れたのだろう。私は平坦な声で呟いてソファーにダイブする。沈みすぎない革のソファーは、ひんやりして気持ちがいい。

 そんなことを思いながら、私は夢に落ちていく。

 起きたときには、どうかスッキリとしていますように。

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