二章 第12話 『仇となった優しさ』
暗く、呼吸をするのすら億劫になる淀んだ空気が陰鬱に漂う空間だ。
暖かみなど微塵もない冷たい石の壁。
中に入った者を外に出さないようにと鉄格子が頑なに見張っている。
不衛生でどことなく湿ったベッドにヒガナは腰掛け、死んだような瞳で天井を眺めていた。腕に付けられた枷には赤黒いモノがこびり付いていた。
これが何かは想像力を働かせなくても容易に察することができてしまう。伸びる鎖は壁に固定され、拘束される存在の動きを封じていた。
何時間こうしているか分からない。もしかしたら数日経っているかもしれない。この空間には時間を確認するような代物は無いため、今が昼なのか夜なのかも把握できなかった。
アリスが自分の喉を突いて自害を計ったところまでは覚えているが、その後の記憶は断片的なものだった。
気付くと牢屋の中に居た。頭に鈍い痛みがあり、触ってみると包帯が巻かれている。
それまでは何かを考えていたのかもしれないが、今のヒガナには思考する余裕はなかった。その項垂れる姿はどんなにネジを回しても動かないおもちゃのようだ。
しばらくすると、足音が聞こえてきた。それはどんどん大きくなり、やがてヒガナが収監されている牢の前で止まった。
鉄格子の向こう側には、岩という比喩表現が良く似合う角刈りの男性が立っていた。その後ろには看守も居る。
「スオウ・ヒガナ。君にはいくつか聞きたいことがある」
「………………」
すると、看守が鉄格子に鍵を差し込み解錠する。錆びついた音を立てながら鉄格子が開かれる。同時に看守が入って来て、ヒガナを縛っていた枷を外し、外へと強引に引っ張り出す。
牢屋から出たヒガナを一瞥し、
「ついて来て貰おう」
ヴァーチェスは元来た道を戻る。
後ろに看守の視線を感じながら、ヒガナはヴァーチェスの厳つい背中の後をおぼつかない足取りで追った。
「収監、拘束の件だが、君の自傷行為が目に余るものがあったから、例外的な処置を取った。不当なものではないということを了承して貰おう」
「自傷行為、ですか」
「君の取り乱し方は狂気の沙汰に等しかった。あのまま放置していたら、自ら頭を割って死んでいただろう」
断裂した記憶の合間、凶行に至っていたことの驚きより、頭の痛みの理由が分かったことへの安心の方が勝った。
「迷惑かけてすいません」
「我々は市民を守るために存在している。君が気にすることではない」
無骨な言い方だったが、ヒガナを慮る気持ちが確かに言葉の中にこもっていた。
「一つ、良いですか?」
「何だ?」
「俺がおんぶしていた子はどこに居ますか?」
「安心したまえ。彼女はルナが保護している。事情聴取が終わればすぐに会わせてあげよう」
「あまり安心できないんですけど」
ヒガナは今回を含めて三回、例の騎士と邂逅を果たしているが、その印象はあまり良くない。
楽観的で軽薄と感じられる性格も、印象の一端を担っているが、根本的な部分にヒガナは不信感を抱いていた。
言語化が難しいが、どこか歪で捻じ曲がっているような気がする。
「奴は性格に難有りだが実力は確かだ。それに、先日の件で責任を感じているのか、珍しく大人しくしている。私からも丁重にもてなせと伝えてある。危害は加えないと保障しよう」
「そう、ですか」
ヒガナは自分がまた事実から目を背けようとしていたことに気付いた。
ルーチェの安否はもちろん心配だった。
それよりも、アリスの生死の方が重要だというのにヒガナは問いを投げかける勇気が無かった。
×××
ヒガナが通された部屋は、真ん中に木質の四角い机と椅子が二つ、壁際に小さな机と椅子一つ、それ以外には何もない。石壁は牢屋と変わらず冷たく、居心地の悪さがある。
その部屋が取調室と理解するのに時間はかからなかった。
ヒガナとヴァーチェスが真ん中の机に対面に座り、記録係は壁を正面に座る。
全員が落ち着いたところで、ヴァーチェスが口火を切る。
「アリス・フォルフォードだが」
「────っ」
名前を聞いて、ヒガナの全身が強張った。身体は正直という訳だ。
結果を聞くのが怖い。
怖くてしょうがない。
できることなら、二つの可能性が同時に存在している今の状態を維持したい。
それは単なる逃げでしかないが、それでも現実を直視する精神は今のヒガナには無かった。
ヒガナ自身では見れない。
なら、ヒガナに現実を見せるのがヴァーチェスの役割だ。
「ひとまずは無事と言っておこう」
全身を縛り付けていた恐怖が一つ霧散していく。
アリスが生きている、まだこの世界に居てくれているという事実は、ヒガナの腐敗しかけていた精神を寸前で留めてくれた。
「良かった……本当に」
「多少、憂いは晴れたようだな。では、始めるとしよう」
質問内容は、アリスとの関係について焦点が当てられた。
「彼女と出会ったのは、いつ頃のことだ?」
「二、三週間前くらいです」
「彼女と出会った場所は?」
「セルウスです」
「奴隷として売られていた彼女を引き取ったと聞いたが、引き取ったとはそのままの意味で捉えていいのか?」
「はい」
「彼女を引き取るまでの経緯を教えて欲しい」
「アリスを……売ってた商人に声をかけられた時に、檻にいたアリスが気になって、話を聞いたんです。そしたら殺処分するって。目の前で殺されかけている女の子がいるって思ったら居ても立っても居られなくて……だから、俺が引き取りました」
「なるほど」
ヴァーチェスは腕を組んで頷く。彼の巨体を支えていた椅子がまるで悲鳴を上げているように軋む。
ヒガナが怪訝な口調で言う。
「あの、引き取ったっていうのは、アリスから聞いたんですか?」
「その通りだ。私は彼女が虚偽の証言をしていないかを確認するために君に話を聞いている」
「そういうことですか」
つまり、ヒガナはアリスの証言の裏を取るために事情聴取されているということだ。
ヴァーチェスの表情から察するに、ヒガナはシロと判断されている。さしずめ『何も知らずにアリスを引き取った一般人』という認識だろう。
その後も、いくつかの質問が繰り返された。
かれこれ三十分が経ち、若干の疲労が出てきたところで、ヴァーチェスがそれまでとは異なった質問を投げかけてきた。
「一緒に居た幼子とはどこで出会った?」
「え?」
「いや、これは私の個人的な興味からの質問だ。答えたくないなら答えなくても構わない」
「えっと、ソロフォロニウス城ですけど」
その瞬間、ヴァーチェスの表情が大きく揺らいだ。何かを頭から追い出すかのように首を振って深呼吸をした。
「君はなぜそこに行ったんだ?」
「アリスが行きたいって言ったんです」
「そうか。協力感謝する。質問はこれで終わりだ。入り口まで案内しよう」
「ありがとうございます。あの、アリスに会えませんか? 少しだけでいいんで話をしたいんです」
ヴァーチェスは拒否の意を示す。
「残念だが面会謝絶だ。それに、会ったところで会話はできない」
「それって、どういう……」
「アリス・フォルフォードは命と引き換えに声を失った。もう、話すことはできない」
×××
ヴァーチェスに案内され、ヒガナはフロントらしき場所に来ていた。牢屋と比べれば多少は明るさがあるが、どこか静まった雰囲気は居心地の悪さを覚える。
そんな雰囲気を壊したのは一人の声だった。
「あっ、やっと来たよ」
ルーチェを背負っていたルナが、ヒガナとヴァーチェスに気付いて近くに寄って来た。
ルナの服装は見慣れた騎士団の制服ではなく、少女のような装いで麗らかな乙女という印象を受ける。
服装だけでこうも変わるのか、とヒガナが感心しているとヴァーチェスが溜め息を吐いた。
「どうしてお前は、私の理解の外を突き進むのだ」
「まあまあ、そう言わずに。どう? 結構似合っているでしょ」
「似合ってる似合っていないの話ではない。騎士として……」
「残念でしたー。今は謹慎処分中の身なので騎士はお休みでーす」
ルナの小馬鹿にした煽りに、ヴァーチェスは青筋を浮かべて今にも怒鳴り声を上げそうな勢いだ。
怒る副団長を横目に、ルナはヒガナにルーチェを渡してから、スカートを翻しながら一回転。
「名前、スオウ・ヒガナ、だったよね。君はどう思う?」
「い、いや……可愛いと思うよ」
「ありがとう! ほら、副団長。僕にはこの格好の方が似合ってるんだから、制服もこういう感じにしてよー」
「駄目だ。只でさえお前の性別を勘違いしているのが多いんだ。その上、制服まで女らしくされたら、融通の利かない貴族が余計に五月蝿くなる。その処理をするのは誰だと思っているんだ?」
ルナは不満そうに唇を尖らせた。
「えー、団長やエルノートは褒めてくれるのに。特に団長は『テメェのやることはいちいち面白ぇな。オレは止めねぇ、好きなようにやれや』って言ってくれてるのに」
「団長の言うことは鵜呑みにするな。全く、団長はその場の勢いで適当なことを言う……勘弁してもらいたい」
目頭を押さえ、天井を仰ぎ見るヴァーチェス。
上司も部下も問題だらけ、板挟みになっているところを見ると、彼は思った以上に苦労人のようだ。眉間に刻まれているシワがそれを物語っていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「ん? どうしたの?」
ヒガナはルナをまじまじと見つめ、先のヴァーチェスが放った言葉に疑問を覚える。
「性別を勘違いとか言ってたけど、どう見ても女の子だよなって思って。どうしたら男に見えるんだ?」
すると、ルナが突然腹を抱えて笑い出した。
なぜ笑われているのか理解できなかったが、その理由はヴァーチェスが教えてくれた。
「君も勘違いしているようだが、ルナはれっきとした男だ」
「…………へ? は、お、男?」
信じられずルナの顔をもう一度見る。
透き通った白い肌、大きな青い瞳、スッと通った小さな鼻、薄い桃色の唇──どこをどう見ても女だ。
「男なの、か?」
「ハハハハ……ふぅ、そうだよ。何なら確かめてみる?」
「いや、遠慮しておく。男、男か……これが本当の男の娘ってヤツか」
異世界には亜人や魔族の他にも男の娘まで存在していたことに、ヒガナは異世界の趣味嗜好の多様性に驚くことしかできない。
しかし、驚きは胸の中で渦巻く不安を拭い去るには些か足りなかった。
「そうだ。ヒガナのことを迎えに来たっていう子が外で待ってるよ。そういうの身元引受人っていうのかな」
「身元引受人?」
「いやー、ヒガナは本当に不思議な人脈を持ってるよね」
冷ややかな笑みを浮かべ、ルナはヒガナにぐっと距離を詰め耳元で囁いた。
「──気をつけた方がいいよ。あの子は『厄災の血族』だから」
×××
空気が重く、呼吸をするのすら嫌になる場所から解放されたヒガナは、肩に置かれてたルーチェの穏やかな寝顔に微笑んだ。
久し振りの陽射しに目が上手く開かない。
「………………」
目の前に居る少女は、取り繕った笑みでヒガナを迎えてくれた。
彼女の顔を見て、ヒガナの心はほんの少しだけ癒され、同時に一つの疑問が氷解した。
「そうか……そういうことだったんだな」
「………………」
「ずっと引っかかっていたんだ。君があの時に言った台詞」
どうして、その台詞だけが印象に残っていたのか。
その理由は単純。分かってしまえばなんてことない。
以前、同じ状況下で全く同じ台詞を聞いたからだ。
『──ヒガナさん、そんな』
死の瞬間に聞こえた、痛切な台詞。一言一句、寸分違わない。
状況は同じだ。
しかし、場所が違う。
王都に向かう道中と貴族の屋敷。
もし、一緒に行動していたら違和感など感じなかっただろう。
だが、彼女とはセルウスで別れたはずだ。
──なぜ、地獄と化した道中でその声を聞いた?
──なぜ、地獄と化した屋敷でその声を聞いた?
答えはたった一つ。
「俺を……いや、俺たちの後をずっと尾けていたのか。──モニカ」
桃色の髪をフードを深く被って隠し、その隙間から覗く紫紺の瞳が印象的な少女──モニカは苦々しく口元を引き締め沈黙を保った。
それは、肯定と同義だった。
「なぜ分かったんですか? 私の記憶では、セルウスで別れてから一度もヒガナさんたちの前には姿を見せてなかったはずですけど」
「そうだったな」
モニカの認識からすれば、だ。
しかし、既に王都でモニカと一度再会している。逃れられない死が迫る中で、必死に治癒魔術をかけてくれた姿は脳裏に焼き付いている。
ヒガナがモニカの尾行に気が付いた最大の理由は──
「その優しさ、今回は仇になったな」
「別に私は優しくなんてありません」
「でも、こうして俺の前に現れたのは心配してくれたからだろ?」
「ち、違います! 私がこうしてヒガナさんの前に姿を見せたのは状況が変わったからです」
頬を赤らめ、手をパタパタと振り否定するモニカ。相変わらず感情が読みやすい。
しばらく慌てふためいた後、咳払いをしてモニカは気持ちを落ち着かせ表情を引き締めた。
そして、ヒガナに姿を見せたもう一つの理由を明らかにした。
「ヒガナさん、私たちと組みませんか? アリスさんを救うために」
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