第42話 こみ上げてくる涙

 時田あおいにとって、どんよりと重い日々が続いた。


 秋の空は今日も高く透明に輝いていた。


 みどり食品の中央センターには、いつも通りの活気ある風景があった。


 その中で、あおいだけ時が止まっているように活気がない。


「見て見て! またカヌレ買ってきたんだよー。みんなで食べよ。はい、まずはこのはちゃんに」


「わあ、マリアさんいつもありがとうございます。いまちょうどデータ入力しすぎて脳が糖分欲しがっていました」


「でしょでしょ。三時になったらおやつってね、昔から決まってんのよ」


 総務課では清野マリアが大きな紙袋からたくさんのカヌレを取り出していた。


「みんなの分ありますよー! はい、黒沢課長。そんなに濃いコーヒーばかり一日に何回も飲んでないでたまにはスウィーツもどうぞ!」


「おう、ちょうど一息つきたかったとこだ。サンキュー」


「それから氷川主任。さすが、氷川主任は毎日必ず3時になると紅茶を淹れなおしますよね。お供にどうぞ」


「やあ、ありがとう。なんだかルーティンになっていましてね。今日はヌワラエリヤを飲んでいるんですが、ちょっとお供が欲しいと思っていたところでした」


「紅茶の香りで時間がわかるんだから、私たちもありがたいですよー! それからそれから、はい、あおいくんにもどうぞ!」


「……はい」


 あおいはパソコンの画面から眼をそらさずに返事をした。


「およ?」


 取りつく島のないあおいの態度にマリアは笑顔を硬直させた。


 なんとなくほかのメンバーと顔を見合わせて肩をすくめる。


 夕方になり、終業のベルが鳴ると、あおいはすくっと立ち上がり、誰に言うでもなく小さな声で「お先に失礼します」らしき言葉を発しながらさっさとジャケットを羽織った。


 「おい、時田」


 黒沢課長が怪訝そうにあおいの顔をのぞきこむ。


 あおいが無言で黒沢課長のほうを見る。


「お前、最近ちょっと元気ないな。なんか、あったか? 俺でよければ言ってみ」


 思いがけない暖かい言葉が、温泉の湯のようにあおいの胸をじんわりと温めた。


 それと同時に、心配かけたくないけれど今悩んでいることがあるからそっとしておいてほしい気持ちや、今考えていることを説明したい気持ち、愛想が悪くなってしまっていることを詫びたい気持ちなどが一気にあおいの胸中に現われて感情を揺らした。


 何か言葉を発したいが、舌と喉がもつれてうまく発声できない。また以前の吃音癖が出そうで、全身がさっと緊張してしまう。


 結果、あおいがなんとか言えたのは一言だけだった。


「す、すいません」


 とてもじゃないけれど、まだ誰も気づいていないことを口にすることはできない。


 本田美咲が天野碧社長の双子の娘のうちの一人なのだと自分から言うことはできない。


 そして美咲が働いていることを、実の母である天野碧社長が気づいていないこと、それに対して美咲が悩んでいること、その美咲が心配なこと、仕事ばかりして実の娘の近況を把握できていない母親である天野碧社長に対して嫌いになりそうな気持を抱いていること。このままでは統括としていきいき働いていく気持ちがもてないこと。だとしたら、もしかしたら会社を辞めなければいけないだろうかと考えていること。でもそれは出た辞令に対して途中で仕事を放棄するようでやりたくないこと。


 それらがぐるぐる回っていったいどうしたらいいかわからなくなっていて誰ともコミュニケーションをとる余裕がないこと。


 これらのどれも、いま説明できないことばかりなのだった。


 あおいはぺこっと頭を下げると、足早にオフィスを後にした。


 ロボットのようにとにかく帰宅することだけを考えた。


 天気予報では今夜遅くから雨になると言っていた。


 ずいぶん雨雲が増えてきたが、雲の切れ間の夕陽から一筋の光明がバス通りの木々を照らし、その木漏れ日があおいの体を照らしていた。


 しかしあおいにはその黄金色にきらめく美しい秋の夕方も、眼に入らない。


 鼻孔をくすぐる雨が近づく匂いも、いつもなら誰よりも早く気づくのに、今は気づかない。


 最短コースで地下鉄の改札を通り、自宅最寄り駅の停車位置に最も近い車両のドア横に立ち、車内の人々や広告物に目を向けることなく、ただ「ドアにご注意!」と書かれたシールで痛そうな顔をしているうさぎの目尻から出ている涙だけを見ていた。


 自分の目からは涙は出ない。なにかそういうものが、涸れてしまっているのだ。


 自宅最寄り駅で地下鉄を降りた。


 いつものコンビニに寄る。


 いつものおしゃべりなおばさん店員と、男子学生らしき無口な店員が二か所あるレジにそれぞれ立っている。


 あおいはここのところ、このコンビニにおいてもおしゃべりなおばさん店員と男子学生らしき無口な店員の働きぶりに注目していた。よりどりぐりーんをよりよい店舗にするために、さまざまな店舗で働く人物を観察するのが最近の癖になっていた。


 おしゃべりなおばさん店員が客と話す内容に注目していた。このおばさんは、よく見ていると自分からは話しかけない。客の言葉に対応しているのだ。だからおしゃべり好きな客には「そうだねえ、雨降るんだってねえ。そういえば風邪は治りましたか?」と話すし、無言の客にはただ満面の笑顔を向けて「ありがとうございました。重いから気を付けてくださいねえ」などと話す。


 男子学生は、店内が混んでくると、スピードアップすることに集中しているようだ。だから愛想がない。こちらの眼も見ずに会計を済ませ、聞こえるか聞こえないかの声で「ありがとうございました」の短縮形のような言葉を発して、あおいの後ろに並んでいる次の客に目線を移す。それがあおいには「おまえのターンは終了。とっとと失せろ」と言われたように感じられる。


 最近のあおいはどちらのレジにも並ぶようにしていたが、今日のあおいはだんぜん男子学生のレジが良いと思った。


 そしてスピーディに自分の買い物が処理されて、目線でターンの終了を告げられた。


「あざーした」と男子学生が手慣れた口調で言う。


 その瞬間、後ろの客が忙しそうにやってきてレジカウンター台に大量の商品をどさっと置いたので、まだ商品を詰めていたあおいは慌ててよけた。


 驚いたあおいは思わず声が出た。


「あれ、えっと、まだ……」


 男子学生はあおいに何か言おうとしたが、次の客の「レジ袋ちょうだい」という言葉が先になってしまい、次の客の会計が始まった。


 思いがけずそれは、あおいにとってとても悲しい気持ちを引き起こした。


 まるで自分の存在が、この世の迷惑になっているような気持ちになった。


 後ろの客が行動の遅い自分にいらついてとった行動のように思えた。


「……すいません」


 蚊の鳴くような声で一言そういうと、こみ上げてくる涙を誰にも見られないように、あおいは足早にコンビニを出た。


 自分のパワーが、どんどん少なくなっていっているような気がした。

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