第41話 どろりとした感情
ひと雨ごとに秋になる。
9月の空は晴れたり、荒れたり、目まぐるしく変化する。
――来週のお彼岸を過ぎたら、もっと秋めいていくんだろうな。
ハルニレの葉が茂るバス通りを歩きながら、時田あおいは考えていた。
会社からの帰り道だ。夕方の陽射しが辺りを黄金色に染めていた。
しかしあおいの気持ちはそんなに輝かしいものではなかった。
「はあ……」
力ないため息をついてバッグを両手で抱えるように持つ。
「なんだかなあ……」
ぶるるるる……、バッグの中のマグカップが反応してきた。
「あおいくん、最近、元気がないみたい」
このマグカップは不思議な気品を兼ね備えており、いつもいつも話しかけてくるわけではない。ここ数日は会話をしていなかった。
最良のタイミングで、あおいの気持ちに寄り添うように話しかけてくる。そのことはいつのまにかあおいの生活になくてはならない癒しとなっていた。
「あ、ごめん。また、ため息」
「この間まで元気だったのにね」
「うーん……。なんだかなあ……」
「どうしたの?」
「うーん……」
「どうしちゃったの? ここのところ、どんどん胸の扉が開いて、その奥の光の波動まで感じられて、その光で周りを照らすようなあおいくんになっていたのに。なんか心に影みたいなエネルギーの変化が表れているよ」
「う……。描写しないでくれ……」
「ごめんね、心配で。よかったら、話して……」
「うん……。いや……」
あおいはマグカップに対してさえも心のシャッターを下ろしそうになっている自分に気づいてあわてて取り繕った。
「ごめん、ごめん。なんかちょっと変なこと思っちゃって。口にしちゃいけないようなこと、思っちゃって」
「話したくなったら話してね」
マグカップはそれ以上、あおいの困った顔は見たくなかったので言及をやめた。
あおいはつい先日まで秋の透明な青空のように澄んでいた自分の心を、どろりとした嫌な感情が侵食しているここ最近のことを思い、また小さくため息をついた。
昔からよく飼いならしてきたあの感情に近い。
――ま、いっか。別に。
誰かに対して傷ついたとき、すぐにこうやって思うようにしてきた。
ま、いっか。別に。関係ないし。考えてもしょうがないし。
そう考えることで問題の対象と自分を切り離し、安全な自分の殻の中へ帰っていく。他者に期待しない。他者のことで自分の心を見出されないために、他者と自分を分離する。
そうするとうっすらと自分の周りにフィルターができる。かつてはいつもこのフィルターごしの世界を見ていた。コンビニで買い物をするときも、地下鉄に乗っているときも、会社にいるときでさえも、繭のように自分を包み込む優しいフィルターごしにこの世界に接していた。
ところがこのところ、そのフィルターはあおいの内なるエネルギーによって溶けたかのように消失していた。心のシャッターが開くに従い、あおいは自分が何も防御していない生身の状態で、いつも無防備に存在するようになっていった。
この状態になってからは周りからも話しかけられる回数が増えていった。会話が熱を帯びていった。フィルターが作っていた違和感と、あおい自身の緊張感が、ナチュラルにほどけていった。それによってあおいは会社の仲間に対して好意を抱くようになっていった。それは覗き込んだこともない、自分の内側に宿る無限の愛から発せられているものであった。この無限の愛のエネルギーはこれまで無意識にせき止められていた。これを解き放つことがこんなにも幸福なのだということをあおいはこれまで生きてきて知らなかった。
とたんに毎日が光輝き始めた。生きるということの喜びをいま初めて感じているかのように毎日がはつらつとした空気に包まれていった。
ところがその喜びの上から、まさかこんなどろりとした感情が黒い油のように全身を侵していくとはまったく予想だにしていなかった。
しかし、一度輝いた心は、もう分断を解決策にできなくなっていた。
黄金色に光る夕方があまりに綺麗で、あおいは帰路を外れて近くの公園に立ち寄った。
秋の木漏れ日ほど祝福のように感じる光は他にないかもしれないとあおいは思った。
しかし神の祝福を天上に感じていても、地で生きる人間であるあおいの心にはどす黒い感情がざわりと巣食っていた。
――ま、いっか……、と思えない……。別に関係ないし……と思いたい。思えない。
あおいは三回目のため息をついた。
「やっぱり心配だよ!」
黙り込んでいたマグカップがもう一度あおいに話しかけた。
「せめてわけを聞かせて」
あおいはマグカップをバッグごとぎゅっと抱きしめた。そしてしばらく逡巡してから、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「会社、やめなきゃならないかもしれない……」
「え! どうして?」
「最近さあ、すごい嫌な感情があるんだ。どろどろしたやつ」
「……」
マグカップはあおいの発する波動を感じてみた。確かに、あおいから最近発せられている澄んだ愛情のような波動に、不可解に横揺れするような不安な波動が混ざっている。
「僕さあ……、自分で思っているよりも、嫌な奴なのかも」
「そんなことないよ。ボクはあおいくん大好きだよ」
「ありがと……。それでさ、そのどろどろした感情って言うのはね……」
木漏れ日の降り注ぐ誰もいないベンチを見つけ、あおいはバッグをしっかり抱きしめて座り込んだ。
バッグを抱えて俯いたまま、あおいは言った。
「どうしても、どうしても、天野碧社長のことが許せないんだ。嫌いになりそうなんだ。本田美咲さんをあんな気持ちにさせて、長いこと不安にさせて、娘のバイト先の変更にも気づかないような天野碧社長のことを、僕はどうしても許せないんだよ。このままじゃ、ここで働けないよ……」
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