第39話 領域を再定義する


「時田さん、仕事ってそんな立派なことですか?」


 両目から大粒の涙を流しながら本田美咲はあおいに質問した。


 あおいはあまりのことに、頭が混乱している。


 以前、黒沢課長から聞いたことがある。


 みどり食品三代目社長の天野碧は東京の経営コンサルタント会社でキャリアを積んだ後、離婚をし、当時小学生だった双子の娘を連れて札幌に帰ってきて、みどり食品総務課にパートで入社した。女手ひとつで子育てをし、娘たちが高校を卒業したと同時に三代目社長に就任したのだと。


――社長の、双子の娘さん……。本田美咲さんが、社長の娘さん……。


「ひどいと思いませんか。私がここでアルバイトするようになってから、もう何か月も経つのに、どうしてうちの母親は気づいてくれないんでしょう」


 あおいは今、美咲に何を言えばいいのかわからなかった。統括として各店舗スタッフの名前を上層部が把握していないことを課題と感じていることを伝えるべきなのか、会社の先輩として一緒に嘆き、愚痴を言うべきなのか、それとも、それとも……。


――どうしたら、僕にこの涙をとめてあげられるんだろう。


 美咲に対して男性として何かをしてあげたい気持ちを、伝えるべきなのだろうか。


――いや、いまそんなことは絶対に言えない。


 言い淀んでいるとおとなしくしていたカイが割り込んできた。


「おねえちゃん」


「ごめんね、カイくんの話だったのに。お腹空いてるの、大丈夫?」


「おなかすいた」


「ママは、どうしてるの?」


「……おなかすいた」


「カイくん?」


 美咲の涙がとまった。心配そうにカイの表情をのぞきこむ。


「今日、開校記念日でお休みなんでしょ。ママ、カイくんが朝からお外に出てたら心配するんじゃないの?」


 カイは唇を一文字にしてぶんぶんと頭を横に振った。


「大丈夫ならいいけど……」


「あのね、おねえちゃん……、ママはいつも病院にいるんだ」


「えっ」


「去年生まれた妹が病気なんだ。だからママはいつも病院にいる。ぼくはもう小学生だから、大丈夫だって言ってあるんだ」


 初めてカイが自分のことを打ち明けた。


 あおいは話を聞きながら、カイの話す内容にも、そしてカイが事情を話していることにも驚いていた。


「パパにも、ぼくは大丈夫だって言ってあるんだ。でもね……」


 カイはズボンのポケットから子ども用の携帯電話を取り出した。


「立派なの持ってんな」


 あおいが思わず言う。


 カイは「これはちゃくしんせんようなんだ」と画面の表示を確かめてからまたポケットに大事そうにしまい込んだ。


「病院で何かあったら、すぐこれが鳴るんだ。まだ鳴ったことないけど。だから友だちと遊ぶわけにいかないんだ。ここの裏の庭をぼくの基地にして、スタンバイしてるんだ」


 いつまでも裏庭で遊んでいるカイの後ろ姿に、どこか緊張感がいつも漂っていたのを美咲は思い出していた。


「それでさ、ここの社長さん、おねえちゃんのママなんでしょ」


「どうしてそれを知ってたの」


「おねえちゃんの双子のおねえちゃんとパパが話してるの、聞いたんだ。ぼくすぐ横にいたんだ。おねえちゃんのおねえちゃんもパパのことをパパって言ってた。ってことはおねえちゃんのパパもうちのパパなんでしょ」


 美咲はまたこみ上げてくる涙を感じながら「うん」と言った。


「本田航平でしょ」


「うん、本田航平」


「でもおねえちゃんのママは、ぼくの誰になるんだろう。おねえちゃんのママの話を、おねえちゃんのおねえちゃんとパパがしてたの」


「何か言ってたの?」


「うちのママお金持ちだからお金出してもらおうよって、おねえちゃんが。あ、おねえちゃんのおねえちゃんがパパに言ってたの。そんなにお金かかるんだったらママに言おうよって。ママも家族だからって。みどり食品の社長なんだから、そのくらいのお金あるでしょって」


「え……」


「だからぼく思ったんだ……。ぼくのご飯は、みどり食品で食べたらいいんだって。そうすればお小遣い貯めてさ、妹の病気のお金に足せる……」


 その瞬間、何かのスイッチが入ったように美咲が立ち上がった。


 そして湯気をたてている炊飯器のふたをかぱっと開けた。


「今度から、こっちから食べなさい」


 カイが眼を丸くしている。


「商品からは食べちゃだめ。私のまかないから、いくらでも分けてあげる。私から、店長に説明する。裏の庭で土いじりしたら、必ず裏の水道できれいに手を洗うこと。お客さんが来ているときにうるさくしないこと。いいね、わかった?」


 カイは、嬉しそうに頷いた。


 そして言った。


「ぼくさ、何年か前まで三橋カイだったんだけど、本田カイになってよかったって今思った」


 美咲が不思議そうに首をかしげる。


「おねえちゃんも、ここのお店も、ぼくの家って思っちゃう」


 そこへ春田店長が帰ってきた。


「ただいま。ごめん遅くなった。あ、時田くんおはようございます。あれまたその子来てるの? 今日平日だよな、大丈夫なのか?」


美咲はきりっとした顔で、春田店長に向き合った。


「すみません。弟なんです」


「えっ、弟さん? そうだったの?」


「言いそびれまして。すみません、ときどき来ますのでよろしくお願いします。もしかしたらたまに私のまかないを分けることもありますがよろしくお願いします」


 これまでにないようなはきはきとした美咲の態度に、春田店長は面食らったが快く了解した。


 あおいは一連の出来事を見て、いま大きなヒントをもらったような気になっていた。


――僕が今見ているものは、領域の再定義だ……。


 最初は、美咲と母親の問題を聞いていた。美咲は自分がよりどりぐりーんで働いていることを母親であるみどり食品社長天野碧がまったく気づいていないことに傷ついていた。それは美咲の家庭内の悩みだった。


 そこへカイの問題が重なっていった。カイのパパは美咲の父親で碧社長の元夫なのだ。カイは美咲の父親の再婚相手の連れ子なのだ。たしかに広い意味で家族と言えるかもしれない。


――自分の視界から見えているものは、普段はどうしてもせまくなる。


 あおいの気持ちは仕事へ飛んでいった。


――でも、いくらでもその視界を拡大し、自分のいるフィールドの領域をより大きく再定義することはできるのだ……。


 思わず抱えていたバッグにぎゅっと力を込めてあおいはつぶやいた。


「領域を再定義すると、メンバーも増えるってことか……」


「ぶるるるる……」


 バッグの中のマグカップがその言葉に応答した。


「そういうことだよ! あおいくんの楽園に領域なんてそもそもないんだ」


「えっ?」


「領域なんて、そもそもないんだ」


 マグカップはそれだけを繰り返した。


 

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