第38話 仕事ってそんな立派なことなんですか?

 カイは表情のない顔をこちらに向けてまるで棒読みのように言った。


「おねえちゃん、どうしてときどきうちのパパと歩いてるの?」


――やっぱりそうだったか。


 美咲はこのカイの質問によって、ずっと不思議に思っていたことの謎が一つ解けたと思った。


「カイくん、それをどこで見たの?」


 カイは一瞬、おびえたような顔をした。


「怒らないし、私はどっちかっていうとカイくんの味方だと思うから、話してみて」


 そう言われてカイはうつむいて考えていたが、やがて顔をあげて話しはじめた。


「おねえちゃんさ、ときどきうちのパパと駅のあっち側を歩いてるよね。なんでこっちじゃないんだろうって思ってた。おねえちゃん、うちのパパとお友だちなの?」


 美咲はため息をついた。そしてある確信をもって次の質問をした。


「カイくんって、本田カイくんっていうの?」


「え、なんで。そうだけど」


「私も、本田。本田美咲」


「え、おねえちゃんも」


「そう。カイくんのパパは、本田航平さん?」


「うん。やっぱりお友だちなんだね」


――あの子、多分、親からいじめられてる系だと思う。


 以前、カイが黒沢課長にけがをさせたとき、店に来た時田あおいに美咲はそう言った。


 親からいじめられている子はなんとなくわかるのだ。どんなに明るく振舞っていても、眼に温度がない。光がない。いじめられているのではないにしても、もっと愛を求めているのには違いないだろう。


 自分と同じ匂いのするカイのことを、美咲はずっと気にしてきた。


 それは美咲もまた、愛を求め続けてきた人生だったからだ。


 小学生の時に東京で父と別れ、以来、母親と姉と三人で札幌で暮らしてきた美咲だが、ときおり孤独を感じることがあった。


 それはあまりにも母親が仕事のほうをまっすぐに向いていることであったり、姉があまりにも人生に積極的に情熱的に生きていることによって、彼女たちがときどき美咲を見る眼に共通の侮蔑のような、罪悪感のような、まるでうっかり捨て置いていた忘れ物を見るようなものを感じた時に、心の奥深くに生じる孤独感だ。


 気のせいなのかもしれないとは思う。


 けれども幼少期から何千回とその感覚を味わっているうちに、美咲の内側に巣食う孤独感はどんどん強固になっていった。


 カイにもなんとなくそんな悲しさがあるように美咲には感じられていたのだ。


「ぼくのパパの名前、本田航平」


 予感はあった。


 その名前は、美咲が東京で別れた父親の名前と同じだった。札幌に移り住んで再婚しているとは風のうわさに聞いていた。


 父親に会いたくないと、ずっと思ってきた。


 でもこの自分の心の中の空虚な穴を埋めるのは、実の父親しかいないのではないかとも思っていた。


 だけど毎日がんばっている母親の手前、そんなことは言い出せなかった。パパ、札幌にいるんだってね。会いたいな。喉元までその言葉が何度もこみ上げてきたが、数えきれないくらい飲み込んできた。


――お姉ちゃんったら。


 きっとカイが見かけているのは、父親と姉なのだろう。そして二人は何度も会っているんだろうと美咲は確信した。


「いつパパと知り合ったの?」


 美咲はゆっくり首を振った。


「カイくんのパパと歩いてたのは、私じゃないよ」


「うそだあ。おねえちゃんだよ」


「その人は、私の双子のお姉さんだよ。だから私じゃないの」


 カイはあまりのことにびっくりして二の句が継げなくなってしまった。


「双子なんだ、おねえちゃん」


「そうだよ。うちのママはね、双子の女の子二人を女手ひとつで育て上げたんだよ」


「おんなで?」


「うちにはママしかいないの」


「おねえちゃんのママってさ……」


 カイはゆっくりよりどりぐりーんの緑色の看板を見上げた。


 美咲ははっとした。


「ここのお店の社長さんなんでしょ」


 すぐに答えることができず美咲が固まっていると、後ろから声がした。


「えっ!!!」


 振り向くとそこには時田あおいがいた。


「い、いつの間に……」


 美咲は場を取り繕うこともできずに狼狽した。


「なんか声をかけづらくて、おはようございます」


「おはようございます」


 あおいは、切れ長の目を真ん丸になるほど見開いて美咲を見ていた。


「えっと、本田さんって、天野碧社長の娘さんなんですか?」


 美咲は観念したように頷いた。


「母には内緒で働き始めたんです……」


 カイは警戒したようにあおいをにらんでいる。


「えっ、でも……」


 あおいの言葉にかぶせるように美咲は言った。


「でもすぐにばれると思っていたんです。母に。それなのに……」


 美咲の両の眼から大粒の涙が唐突に零れ落ちた。


「全然ばれないんです。もう三か月になります。母は、私がバイト先変わったことも、それが自分の会社の店舗だということも全然知らないんです」


「え……」


「母は、母は、そういう人なんです。でもいくらなんでもまさかと思っていたけど、すぐにここで働いていることを知って何か言ってくると思ったけれど、全然……。やっぱりそういう人でした……。時田さん、仕事って何なんですか。母は仕事に真剣でとってもピュアです。でも母が仕事に一生懸命になればなるほど、私、私、とても悲しいんです」


「本田さん……」


「時田さん、仕事ってそんな立派なことなんですか?」

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