第23話 ふてくされた少年


 黒沢課長からの震える声で「時田、今からイースト店に来てくれ」と電話を受けたあおいが、赤いマグカップをバッグにしのばせて到着すると、店から女性の怒号が聞こえてきた。


 その声の主は、小さい男の子に殴りかかろうとして大声でどなりつける、あの天女のような本田美咲だった。


 あおいは思わず、殴ろうとしている美咲の手をつかむ。


「な! 何してんですか」


 美咲は、じろりとあおいを見てふてくされたような顔をした。


「あ、おつかれさまです」


「おつかれさまです。どうしたんですか。この子が迷子なんですか?」


 小学校低学年と思われる少年が、美咲と同じようなふてくされたような顔をして口をとがらせていた。


「えっと、黒沢課長に呼ばれたんですけど。黒沢課長は?」


 美咲は迷惑そうに眉をしかめて「奥」とだけ言う。


 あおいがイースト店の奥に入っていくと、パイプ椅子にぐったりとうなだれて座っている黒沢課長の姿があった。両手で顔を押さえている。


「黒沢課長、大丈夫ですか? どうしたんですか?」


「おー、時田。すまん」


「迷子ってあの子ですか? っていうか、課長具合悪いんですか? さっきの電話でもなんかご様子が……」


 うう、という黒沢課長のうめき声にかぶさるように、後ろから美咲が話しかけてきた。


「黒沢課長、さっき思いきり転んで、お顔を打ったみたいで、大量の鼻血が出て……」


「ええっ」


 よく見ると顔を押さえている両手は大判のタオルハンカチをもっている。その薄い水色のタオルハンカチは鮮血に染まっていた。


「うわ、やばくないですか。強く打ちましたか。病院行きましょうか」


「うん……」


 やけに素直に従うことが、強く打ったことを証明しているようだ。


「それにしてもなんで。どこかにぶつかりましたか」


 あおいが聞くと、また後ろから美咲が答えた。


「いや、それは、あの子が足をひっかけたから」


「ええっ」


 あおいは驚いてさっきの少年のほうを見た。


「この、迷子の子?」


 黒沢課長はハンカチからするどい眼を出して少年をにらみながら言った。


「ああ、そうだ。とんでもないクソガキだ。迷子だからって容赦しねえぞ」


 立ち上がろうとする黒沢課長をあおいが慌てて制する。


 美咲が少年を守るように、黒沢課長と少年の間に立ちはだかり、「この子、迷子じゃないんです」と言った。


 黒沢課長は「へ? どういうことだ。さっき、そのガキにお前どこの子だって聞いたら、ぼくは迷子だって言ってたじゃないか。おい」


 少年が唇をとがらせたまま、「迷子だもん。知らない」と言い捨てるように言う。


 あおいはそれぞれの様子を見て頭が混乱してきた。


「ええと、よくわからないんですけど?」


 説明を求めるように美咲を見る。


 状況が状況だが、ついあおいは美咲に見惚れてしまう。


 今日も目深にかぶった三角巾の奥の瞳が秋の湖のように清らかだ。黒髪を一本に結んで背中に垂らしたその姿は、神に仕える天女のようだ。そしてささやくような少しかすれたアルトの声。


――やべー。めっちゃかわいい。


 そのとき、少年がすたすたと美咲の横へ行き、美咲の白い手をぎゅっと掴んだ。

 そしてあおいの眼を宣戦布告するかのようにじっと見た。


「土いじりした手で触んないで」


 美咲は冷たく手を放し、「だいたいあんたね!」とまた殴りかかろうとする。


 あおいははっと我に返り、「すみません、状況説明を……」と美咲にうながす。


「あの、ええと……」


 美咲が言葉に詰まっていると、奥から黒沢課長が声を張り上げた。


「俺がさっきイースト店に様子見に来たら、この子どもが弁当をこっそり持っていこうとしてたんだよ。注意しようとしたら逃げるから、追いかけて走り出したら急に立ち止まって俺に足を引っかけたんだ。それでそこの台に顔を思いきりぶつけたんだよ。親の名前を言えと言っても迷子だっていう。もうすぐ親が来るから待ち合わせしてるんだって。それで誰か社員がいないとまずいし、俺も病院行きたいから、お前を呼んだんだよ、時田」


 わかったような、よくわからないような気分で、あおいは話を聞いていたが、どうも納得できない内容だ。しかし自分が来たので黒沢課長には顔面を強打していることもあり、早めに病院に行ってもらいたい。


 そこへ両手に買い物袋を提げたもう一人のアルバイト、長谷川多津子が買い出しから帰ってきた。


「いやー、あっつい、あっつい。今日、蒸すわねえ」


「おつかれさまです」


 あおいが挨拶をすると、「ええとお?」と多津子が首を傾げた。


「あの、総務課の時田です」


「あー、日曜日に、コロッケ弁当買いに来てた」


「ですです」


「どしたのよ、今日は。あれ黒沢課長もいらしてたんですね。すいません、何かありました? わたしねえ、駅の向こうのスーパーが今日は安いから遠出しちゃってたもんで遅くなりました。美咲ちゃん、大丈夫だった? 春田店長まだ戻ってないのね。そしてあら、カイくんまた来てたの? 何しょげてんの。怒られたの?」


 多津子は少年の前にしゃがみこんで目線を合わせて言った。


 美咲が説明をする。


「カイくん、黒沢課長に足を引っかけてけがさせたんです」


 カイくんと呼ばれた少年は、「告げ口すんなよ」と美咲のスカートを引っ張る。


「えっ?」


 あおいがそのやりとりに驚くと、黒沢課長も、「えっ? いつも来てる子なの?」と立ち上がる。そして「いてててて」と座り込んだ。


「あー、やっぱり黒沢課長、すぐ病院行ってください」


 あおいはスマホを取り出してタクシーを呼び、「診察終わったら一応僕に連絡ください」と言って黒沢課長を乗せた。


 タクシーが走り去り、あおいはなんとなく黒沢課長の座っていた店舗奥の椅子に座り込み、ため息をついた。少し疲れたのだ。


 店先では多津子がカイと話している。


 あおいの近くにおいてある多津子が買ってきた備品類を、美咲が整理し始めた。

 その美咲にあおいは店先のカイに聞こえないような小さな声で話しかけた。


「あの子、いつも来るんですか? お弁当こっそり持っていこうとしたって?」


 美咲は軽く肩をすくめると、あおいのそばに来てアルトの声をひそめて言った。


「あのー、春田店長に言いませんか?」


 それは内容によるな、と思ったが、エーデルワイスのような可憐な顔がすぐ間近にある状況ではうなずくことしかできなかった。


「多津子さんにも?」


 こくりと首を縦にふる。


 美咲はさらにあおいに近づいて耳元でささやいた。


「あの子ね、いつも万引きするの。だから私、その度にレジにお金入れてるんです」


 あおいは驚いて美咲の顔を見た。


「あの子、多分、親からいじめられてる系だと思う」


 そう言った美咲の顔は、紙のように無表情だった。

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