第14話 夕陽が落ちない夕焼けの海

「ご案内いたします。この列車は特急北斗11号、札幌行きです。停まります駅は、五稜郭、新函館北斗、大沼公園、森、八雲、長万部、洞爺、伊達紋別、東室蘭、登別、白老、苫小牧、南千歳、新札幌、終着札幌です」


 清野マリアは、函館駅でにしんみがき弁当と缶ビールと会社へのお土産のトラピストクッキーを買い、札幌行の電車に乗り込んだ。自由席車両6号車の8D席。帰りも窓際で、そして海側だ。


 列車がガタンと揺れ、出発した。


 マリアは、発車と同時に冷えた缶ビールをがしっと掴み、車内に響くプシューという音を立ててプルトップを開けた。


 窓外の函館の風景を見ながら、ぐいっとビールを飲む。


 まだ陽は高い。お昼を過ぎたばかりだ。


――はあ、飲まずにいられるかってーの。


 さっそく鰊みがき弁当を開けて、鰊の甘露煮とコリコリの数の子をばくばく口に入れ、ビールをぐびぐび飲む。


――このマリアージュは神だわ。ビール二本買えばよかった。


 ふと、通路を挟んだ隣の席の家族連れがこちらを見ているのに気づく。


――何見てんのよ。日曜日に20代女子が一人で駅弁とビールをやっているのがおかしいとでも!?


 なんだかとてもいらいらしてくる。家族連れの子どもがさっと目をそらす。


――ふん。


 マリアは窓の外に広がり始めた畑の風景を見ながらさらにビールをぐびりと飲んだ。


 昨日の夕方、マリアは函館に到着するなりタクシーを飛ばして大森浜へ行った。海岸通りから風見たちと思われる撮影チームを見つけ、「ここで降ります」と言って大量のくるみパンを抱えて砂浜に降りて行った。


 そこらじゅうにまだ高い夕方の陽射しが満ちていた。太陽はこれから、大森浜とは反対の函館山と函館湾の側へ落ちていく。大森浜には光と影のコントラストだけがあった。


 その砂浜の一角に、モデルのようにお洒落な人たちが4、5人でカメラのセッティングをしていた。洗練された雰囲気の外国人男性、セクシーなノースリーブワンピースを着た外国人女性。そして黒髪ポニーテールを背中に長く垂らした黒づくめファッションの、いかにも大人の女性というような日本人らしき美しい人。その女性が笑いながら腕を組んでいる背の高い日本人らしき男性がちらりとこちらを見た。その青年は黒髪ポニーテールの女性の肩に優しく手を置いてから、こちらへ向かって歩いてくる。


 着古して色褪せたシャツに、まくりあげたチノパン。日焼けした肌。伸びた髪。皮紐のついたチョーカーにぶらさがる、翡翠の匂玉に見覚えがあった。


 マリアは夢の中にいるような気持ちで、目の前の情景が信じられない。


 両手にくるみパンをぶら下げて立ち尽くす。


「マリアちゃん、わざわざ」


 風見が白い歯を見せて笑った。


「髪伸びたね。すっかり女性らしくなって……。いつも黒っぽい服装のイメージだったけど、柔らかい感じになったね」


「あー、いや、えーと。風見先輩も、髪伸びましたね」


「俺は、だらしないだけ」


 風見は「ちょっと休憩しましょう」とチームの人達に声を掛け、マリアを砂浜から上がったところにある展望台のベンチへ連れて行った。


「風見先輩、これ、くるみパンです」


 マリアはそう言って両手に持っていたパン屋の袋を風見に渡した。


「こんなに買ってくれて……。マリアちゃん、本当に相変わらずだ。こうして会いに来てくれて……。ちょっとでも、会えてすごく嬉しいよ」


 マリアは緊張しすぎてしまい、いつもなら誰にでもポンポン出てくる活発な会話がまったくできないでいる。


「いや、そんな、買いすぎました。すみません」


 風見は大きな声を出して笑った。


「ほんと、そういうところが、相変わらずだ。マリアちゃんのすごくいいところ」


 マリアは今日もピンクのブラウスに、ピンクのバッグだ。バッグからペールピンクのレースのタオルハンカチを取り出して、汗ばむ手を拭く。


 自分のファッションを野暮ったく感じる。

 お洒落で洗練されたグループの前に、萎縮してしまう。


 どうしてここに来てしまったのか、何を話せばいいのかわからない。

 でもどうしても、一つ聞きたいことがある。


「あの、風見先輩」


「ん?」


 マリアはベンチに隣に座っている風見のほうへ上半身を向け、あらたまって聞いた。


「どうして、私に、連絡してくれたんですか?」


 風見はくるみパンの入った袋を、倒れないように大切そうにベンチに置いて、立ち上がった。海の方を見て、しばらく立ったままだ。


 マリアは、もう本当に少ししか残っていない勇気を振り絞って、自分もベンチから立ち上がり、隣に立った。


 風見が口を開く。


「大森浜ってさ」


 海からのぬるい風が服をはためかせる。


「夕陽が沈まないけど、夕陽が射しこむ海なんだ」


 今は初夏の夕方。日が沈むにはまだ時間がある。


「この時間帯。だんだん暗くなっていく函館の街を、函館山の上から見るのが人気だけれど、俺はこのなんでもない砂浜から海を見ていたいんだ。函館は両側が海に挟まれている。一番狭いところは一キロもない。だから朝日は大森浜から昇って、夕陽は函館湾に落ちる。両方海なんだよ。大森浜に向かって夕方を過ごすとさ、背中に落ちていく夕陽の光が、目の前の海の届くのを見ることができるんだよ」


 饒舌に話す風見に、マリアは何と相槌を打っていいのかわからない。

 自分が質問した内容と、風見が話していることが、とてもかけ離れているように感じる。

 ただ黙って、横に立ち、大森浜の海を共に見る。


 そんなマリアを風見はじっと見た後に言った。


「ドレスデンに行って、叔父から写真習い始めて、しばらくしてから、マリアちゃんのことを考えるようになったんだ」


 マリアは「えっ」と息をのむ。


「俺が映画を作るのを、マリアちゃんずっと助けてくれていたけれど、正直ちょっとうるさいなと思ったこともあった。どうしてこんなにいっつも同じテンションで、こんなに食いついてくるんだろうって」


 マリアは恥ずかしさに目の前が真っ暗になった。


「ごめんなさい……」


「違うんだ。わかりづらいけど、今ほめてるんだ」


「えっ?」


「なんというか、マリアちゃんには雑味がないんだよな」


「ざつみ?」


「俺さ、叔父さんによく言われるんだよ。雑味のある写真を撮るなって。格好つけようとか、うまく撮ってやろうとか、そういうのいらないんだよって。ただただ、対象を見つめるんだって」


 マリアは、静かに頷いた。素敵なおじさんだと思った。


「ただただ対象を見つめるって、すげー難しいんだよ。そんなことできる奴いるのかって周りを見渡しても格好つけてる奴ばっかでさ。でも、一人いるなって思ったんだよ。マリアちゃんは、すごいまっすぐ生きてる。今回もそのくるみパンの量を見て、全然格好つけてないって思った」


「ああ、もう。恥ずかしすぎます」


「ただただ、くるみパン届けようっていう気持ちのカタマリで、ここまで来てくれた」


「なんかすいません」


「すごいことだよ! すごい尊敬する」


「風見先輩やめてください」


 気づけばマリアは、手のひらをかざして風見からの言葉を制していた。


「もうやめてください。恥ずかしすぎるし、風見先輩が言ってくれているところは、私が風見先輩に迷惑かけた私の嫌な部分だし。もっと控え目で空気を読める人になりたいのに、私はどうしても、ついこうやって夢中になってしまうんです。恥ずかしいです」


「俺は、そんなふうに写真を撮れるようになりたい。そう思ったらマリアちゃんがすごく懐かしくなって、つい連絡しちゃったんだ」


 砂浜で休憩をしていた撮影チームが声を掛けてきた。外国人男性が大きな声で呼んでいるが、その言葉はマリアにわからない。黒髪ポニーテールの女性が腕を組んでこちらを見ている。


「先輩、邪魔してすいませんでした……。なんかわざわざほめてもらったみたいで、すいません、ごめんなさい」


「マリアちゃん、今日泊り? 何時になるかわからないけど、みんなでメシ行くと思うけど、行く?」


 マリアは大きく首を横に振った。


――あんなお洒落グループと一緒にピンクのブラウスとピンクのバッグで参加するなんてほんと無理!


「行きません」


「へっ? せっかく来てくれたんだからご馳走するよ」


「行きません! 先輩、がんばってください! 夕陽が落ちない夕焼けの海、楽しみにしてます! さよならっ!」


 あっけにとられる風見を大森浜に残し、マリアはホテルにコンビニ弁当を買ってチェックインし、泣きながら食べた。


「帰ろう、札幌に帰ろう、私の職場に帰ろう……。私の居場所に戻ろう……」


 自分でもどうして泣いているのかわからなかった。


「なんか私、いろいろばかみたい!」


 まるで栓が抜けたように、涙が次から次へと出て来た。

 涙はずっと止まらず、朝方ようやく眠りについた。

 チェックアウトぎりぎりまで寝て、お昼すぎの電車に乗った。


――風見先輩のばか。


 大沼公園を過ぎて海が見えてくる頃には、鰊みがき弁当も缶ビールもたいらげられていた。


――風見先輩、ほんとに遠くに行っちゃったんだ……。


 そう思うとまた新たな涙がこみ上げてくるのだった。

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