救世主は救わない
nauji
第一章
第1話 回想
一般的な家庭。
サラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた、一人っ子。
世界の情勢は余り平和とはいえなかったが、俺の周囲はいたって平和だった。
そんな平和な環境にあって、異分子だったのは俺自身。
物心ついた頃、俺の中に【
当時は【救世】が特別なことだと知らず、皆が持っていると思っていた。
成長するにつれ【救世】が特別なことだと徐々に解るようになり、【救世】の意味を知ることで将来の夢は潰えた。
普通は好きなことや憧れ等を元に、将来の展望を思い描くのだろうが、俺の場合は【救世】があったからだ。
【救世】を持つことの優越感。
【救世】を持っていることの安心感。
【救世】を使ってみたいという欲求。
【救世】を使わざるを得ない状況への恐怖。
【救世】は俺から可能性を
別に神のお告げみたいなものを受信したことは終ぞなく、しかし、【救世】の存在により、俺に求められているものは明白だった。
自身が
得体の知れない何か、神やら運命やらから与えられたような【救世】。
【救世】を使うであろう、その日その時が来ることを心待ちにしつつも、どこか恐れを抱いて日々を過ごしていた。
気が付けば、学校を卒業したものの、定職に就くでもなく、惰性に生きた。
どれ程努力を重ねたとしても、いずれ全てが無駄になると知っているのに、何かに打ち込む気が起きよう筈もなかった。
連日のように、世界のどこかで気分が沈む出来事が報道されており、世界は終末の気配を日に日に増していった。
明確に滅びを予感させる事象はないものの、地震・噴火・異常気象など、自然災害に限らず、動物の異常行動、不安に駆られた人々が起こす事件、出生率の慢性的な低下。
しかしながら、俺の周囲では平穏と呼べる日常が続いており、どこか対岸の火事だと、世界のどこかで起こっている不幸な出来事と感じていた。
何といっても、俺には【救世】があるため、他の人々よりも楽観視していた。
いざとなれば【救世】を使えば良いのだと。
その日は何の前触れもなく、突然訪れた。
目覚めた時から、空気が張り詰めており、何かが起きるのではないかという不安が首をもたげていた。
マンションの自室の窓から望む空は、太陽に雲がかかっている訳でもないのに、妙に薄暗く感じられた。
そんな不安とは裏腹に、窓に映った俺の顔は、黒髪の下に何かを期待するような目を向けていた。
気が付けば、俺はその何かを探すようにマンションから出て、街を彷徨い歩いていた。
不定形の不安は、家族を含め、周辺の住人たちも感じ取っているようだった。
誰もが、いつもと何かが違うのは感じているのに、具体的に何が違うのかは理解できない。
あたかも、街並みを見た目だけ真似ただけの、別世界にでも迷い込んだかの様な違和感が拭えない。
破裂寸前の風船の如く空気が張り詰め、ふと何か切っ掛けがあれば、パニックが発生しそうな雰囲気を纏っていた。
その声を皮切りに、混乱が加速した。
付近で車の急ブレーキ音と、どこかに衝突した衝撃と音が響いた。
赤ん坊の泣き声が、男の怒声が、女の金切り声が、連鎖的に発生していく。
目的地は定まっていないのか、人々は脇目もふらず、少しでも遠くへ行こうというように、我先にと駆け出して行った。
人々の進行方向と逆に向かえば、この混乱の原因が判明するだろうか。
恐怖を抱きつつも、好奇心とも怖いもの見たさとも言える気持ちが先立ち、気が付けば騒ぎの原因と思われる場所に足を向けていた。
退屈な日常が終わりを迎える予感のようなものを抱きつつ、人々の流れに逆らっていった。
一目見て、この騒動の元凶だと分かった。
道路を挟んだ反対側の歩道の上、そこに居たモノを何と形容すべきか。
車が行き交う合間から見える生き物。
既知の生物ではない。
否、正確には、既知の異なる生物同士を無理やり結合したような姿。
ゲームに出てくるモンスター、所謂、キメラだかキマイラだかいう奴だろうか。
イヌ科の頭部に、大型の猿のような体躯。
全身が黒い毛で覆われており、四つん這いから直立姿勢になったら体長は成人男性程か。
大きく上下に開いた口に並ぶ鋭い牙が、如実にその生物が捕食者であると物語っていた。
明らかに危険な存在である、ひとまずイヌザルと呼称することにした生物に向かって、10代後半と思われる3人組の男子が近づいていった。
スマホで撮影しており、もしかしたら捕獲でもしようとしていたのかもしれない。
しかし、それが叶うことはなかった。
イヌザルに一番近づいた男子の頭部がある筈の場所に、イヌザルの頭部が存在していた。
口端から滴る血、固い物を噛み砕く音が響いた。
まったく視認できなかったが、状況から推察するに、イヌザルが男子の頭部を正面から一口に食らったのだろう。
素早さもさることながら、強靭に過ぎる顎の力も脅威だった。
余りに現実離れした光景に、思考が停止し、その場の誰も声をあげることも、体を動かすこともできなかった。
視界がグニャリと歪み、気が遠のき、全身の血の気が引いていくのを感じた。
惨状に対する生理的な吐き気よりも、非日常感が勝り、どこか現実味が薄い。
だが、道路を挟んだこちら側にさえ、血の臭いが漂っている。
これは妄想などではない。
明確な命の危機に直面しているのだ。
何時からか、道路を往来していた筈の車が途絶えている。
早鐘を打つ心臓の鼓動とイヌザルの咀嚼音のみが、しばらくその空間を支配する。
何か音を出せば、次は自分が被害者になるのだと、その場の誰もが思った。
事態は更に悪化した。
ふと気が付けば、周囲を黒い影が覆っていた。
どこから現れたのか、歩道、道路、屋根、電柱、街灯、街路樹等、イヌザルが所狭しと周辺を埋め尽くしていた。
血の匂いに引き寄せられたのか、どれも涎を垂らしながら。
犬顔の口から猿のような鳴き声を上げていた。
イヌザルの鳴き声を掻き消すが如く、周囲に車のクラクション音が響き渡った。
いつの間にか道路に車が数台連なっており、歩道上にも、遠巻きにこちらを伺う人々の姿が見受けられた。
車は依然として、道路上のイヌザルに向かって警音器を鳴らしていた。
遠くからはパトカーや救急車のサイレン音が聞こえた。
他の場所でもイヌザルが現れているのかもしれなかった。
その音を切っ掛けとしたのか、全ての事態が動いた。
周囲のイヌザルが傍の人々や車へ襲い掛かった。
勿論、俺にも襲い掛かってきた。
標的が分散されていようとも、数はイヌザルが上回っている上に、身体能力も人のそれを上回っている。
最早、到底逃げられる状況ではなかった。
先の男子の惨状を思い出したのか、俺は
その行動が即死を回避する結果に繋がった。
左腕に今まで感じたことのない激痛が襲い、次いで喪失感が生じた。
激痛に悲鳴をあげながら腕に目を向ければ、肘より先が半ばから噛み砕かれていた。
その光景を視認したことで、更に痛みが増した。
足に力が入らず、仰向けに転倒してしまった。
今度は右足首を噛み砕かれていた。
すぐ横にイヌザルの顔があった。
右肩を噛み砕かれた。
左足、脇腹、次々と自分の体が激痛と共に欠けていく。
噛み砕かれた箇所が、頭の神経を焼き切らんばかりに痛みを伝えてくるが、痛みに見開かれた目からは、俺に尚も群がってくるイヌザルが見え、この後に起こるであろうことを否応なしに想像させた。
最早数秒後、悪ければ数瞬後には、生きながら残りの部位を食われるだろう。
最初の犠牲者である男子は、一撃目で頭を失ったのは、その後の展開を体感しなかった分、まだマシだったのだろう。
周りを確認する余裕などなかったが、周囲でも阿鼻叫喚の惨状が広がっていた。
悲鳴と咀嚼音をBGMに、誰もが、抵抗らしい抵抗もできず、捕食されていた。
世界の終末が近づいている証左だったかのように、悪鬼のような化け物により、この世に地獄が顕現したような有様だった。
この極限状況で、自分にできることは何か。
両手両足の感覚がない。
まだ動かせる箇所は、首から上の部分ぐらいだった。
――好き勝手、俺の体を食いやがって。
――食われる側ってのを、お前らも味わえ。
俺に食いついているイヌザル共の動きが一瞬、不自然に止まった。
痛みと恐怖で俺の体は委縮していた。
体に活を入れるため、あらん限りの力で吼えた。
委縮が解けると同時に、右肩に噛みついている奴の首元に渾身の力で噛みついた。
口の中に体毛の感触による不快感。
余りの獣臭さに嘔吐きそうだ。
分厚いゴムに噛みついたような感触を歯が返してくる。
自分の血の味とイヌザルの血の味。
噛みつかれたイヌザルが人の手に似た前足で俺の頭を抑えつけた。
そのまま
頭から嫌な音がし始めた。
頭の形が歪んでいくのを感じた。
俺の頭がトマトのように潰れる様を幻視した。
全身に無事な箇所はなくなっていた。
何匹のイヌザルに食らいつかれているかも分からなかった。
流石に……もう、できること……は……。
……死にたくない……。
思考が……覚束な……い。
……死にたく……ないなぁ……。
俺に……できること……。
……死に……た……く……な……。
俺に……俺に……は……。
……【救世】があった。
俺に備わっていた、世界を救える筈の力。
世界を救うためではなく、自分が助かるために。
肺に残った最後の息で言葉を紡いだ。
≪救世≫
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